2015年3月5日木曜日

のばら

薔薇はのばらが好きです。




午前中にいろいろ検診。
 待ち合いの時間に、週刊朝日を読んでいた。高橋源一郎と北原みのりの対談がおもしろかった。シャルリー事件をうけての、言論の自由という考え方のこわさについてだった。「ただしいひとはこわい」という気持ちが、いつもわたしのなかにもあったから、ずいぶんと共感した。正義の怖さ、ひとが自由というときに指しているもののいいかげんさについて。ソンダクやハンナ・アーレントの話もでてきた。徹底した個として社会に発言することの難しさについて。法律のことばの世界では、対話が成立しないという話もおもしろかった。
 別の記事では、俳人の金子兜太のインタビューが載っていた。戦争前のはなし。秩父の田舎の開業医の家の子として、人々の貧困を目の当たりにし、ゆえに家の収入もおぼつかないなか、満州帰りの鼻息の荒い輩の吹聴が、貧しい農村部の戦争への意欲を高めていったという。金子兜太自身も、村の人々の幸せを願う延長上に、戦争へ肯定的な気持ちが育っていったそうだ。ひとは、日常のなかのどこで、どんなふうに間違ってしまうのか、もっと知りたいと思った。
 上記のふたつのはなしから、勝手にみちびきだしたこと。「だめなやつ」とみなされることは(わたし)、そう、悪いことではないかも。都合良く解釈。ただ、だめ認定をされると、発言権を奪われる場合がある怖さも確かにある。声が大きいひとが前に出て話すばかりになってしまう。声の大きいひとこそ「ただしいことはこわい」という意識を持ってくれたらと思うけど、声の大きさと正義感の強さって、一般的には比例している場合が多い。ただ、表現の世界は、力だけが影響力を持つ秩序を撹拌させ、その関係性を転換させることができる(反するという立場ばかりではなくて)。どんなに小さな声でも発信していることは大事だと思う。

 なんか、暗い感じのことつぶやいて終わっている先日。とりあえず、解決しそう。いまのところは余地あり。

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