2017年7月19日水曜日

叭叭鳥から鴉へ

先日、出光美術館で「水墨の風」展をみた。
雪舟と等伯は柱にした展覧会で、まさに『山水思想』松岡正剛著の世界なのだ。

そのなかに長谷川等伯の屏風「松に鴉」が展示してあった。左の白鷺図と双曲の屏風絵である。

美術館の説明書きによると、もともと中国の山水画では叭叭鳥という黒い鳥が吉祥として描かれることが多く、等伯も模写していたのであるが、日本には叭叭鳥が生息していなかったことからなのか、等伯はある時期から鴉を画題にしているのである。

わたしには、このことが単純に、便宜上のこととは思われないのである。
モチーフが叭叭鳥から鴉に至るまでに、画家がうちやぶった薄い扉に関して、思いを馳せずにはいられない。

中国の模倣ばかりしていた山水画の世界に、自己を出現させた瞬間であり、独自の絵画空間を花開かせた選択である。

このことは、画家が絵画という学術から離れて自分の視点にのみを信頼してそこに立脚した瞬間である。中国がどうの日本がどうのというはなしではなくて、個の確立、あるいは個としての表現の確立が革命的になされた出来事のように思う。
このような静かな内的自発による革命は表現をとおして、公にやがて波及していくはずなのであるが、いわゆる外的な力による革命との大きな違いは、その革命によってもたらされる空間が穏やかであるということである。

この絵をみてもわかるように、鴉のいる空間はいかにも穏やかであたたかいのだ。
これは等伯は自然や生き物へのまなざしのありようを素直に物語ってもいる。こういうまなざしを等伯を通してみることができるのは、本当に眼福であると思う。


ごく薄く、向こうが透けているにもかかわらず、誰も開こうとしなかった扉がある。
それを、ときどき開くものが現れる。
そしてその人物は、いつも公と私のあわいですりつぶされようとしながら、「わたくし」を選びとるのである。
等伯の場合、公は狩野派であったということだろうか。



革命というものは個人が、立脚するその場所だけで静かに行われるべきものなのかもしれない。



2017年7月14日金曜日

雪舟から等伯まで

松岡正剛『山水思想』は雪舟から等伯まで、水墨画の変化遍歴をたどり、日本美術の歴史を分析していく名著である。まだ、一読に過ぎないので理解が及んでいないところもあるのだが、それまで、なにかもやもやとしていた「日本美術」ことに山水画への理解と憧憬が深まった。
枯山水が作庭を禁じられていたエリアにつくられるようになったという。それは、たとえば、真名に対して、ひっそりと仮名が生み出された必然と同じように、鉢山、盆山水に対応したものだ。

自然に囲まれた古の人々にとってなぜ、胸中山水が必要であったか。それは、思想が自然の摂理を必要とした結果なのだろうか。では、思想哲学は、自然の摂理をどのように「利用」しようとしたのだろう。


日本にかぎっていえば、温暖で四季豊かであるいっぽう、地震や台風などの災害がひっきりなしに生活をおびやかしてくる。このダブルバインド的な地形と気象が思想に与える影響もかなり大きいはずである。


明治維新以降、透明な囲いのなかで植民地化していった日本が美術史をひもとくだけで見えてくる。安富は、明治以降、日本人は日本語を捨てている。といっている。今使われている日本語は、教育的な言葉であって、生きた日本語ではない。言語が仮に、危機管理を主な役割しているものだとすると、日本人は、精神的危機を察知する能力を捨て去って、そのアンテナをなにかにそっくり託すことで生きていこうとする道を自ら選びとった、あるいは巧みに選び取らされたのかもしれない。



ネガの発明がいつも文化的思想的に推進力をもっていた。発展というべきか、技術の向上というべきか。
今現在の日本では、なにをネガにするべきなのだろうか。
コマーシャリズムもおたく文化も、そのネガの小さな顕在化だったと思う。
が、まだこれから、大きくあらわれなければいけない、虚空があるはずなのだ。
ネガの想像力による空間には、力による支配から完全に離脱する道があるはずなのだ。