2020年2月26日水曜日

眠りシャッター

 ここのところ、刺激的な、よい展覧会の鑑賞が続いている。
 ひとつは、豊田市美術館の岡崎乾二郎「視覚のカイソウ」展、もうひとつは府中美術館の青木野枝「霧と鉄と山と」展。
 詩的で、けれど叙情に流されない。どちらも、その強さとしなやかさが、パワーをくれるような展覧会だった。

 岡崎氏の作品を鑑賞していて、ふと、まとまった創作イメージが浮かんだ。展覧会を観に行くと、そんなふうに、創作欲をかりたてられ、方向性を示唆されることがある。

 過去の記憶が今の眠りと通じていて、まぶたを閉じるごとに、シャッターが降りて、過去(新たなものとして)を写し取るという創作メソッドと、ただ何も考えずに浮かんでくる心象抽象風景を「山」と称して描き続けている創作メソッドが、つながる予感が。

 注意すべきは、いい加減なデフォルメをしないこと。形を慎重に描くことで、絵画とわたしとの間の、信頼関係を築き対話すること。ある程度描けたら、ベンヤミンを読んでみること。確かめるべきことがあるような気がする。クレーの演繹法についても 。

 眠りとは、思えば不思議な行為である。身体の自然な欲求でありながら、「社会」のなかで、不謹慎な行為とみなされることもあるし、かといって、たとえば排泄行為などほどのタブーではない。許容も緩やかだ。眠りは、身体と社会活動の間で曖昧に揺らいでいるものなのかもしれない。よって、眠りはどこにも属さず自由である。デモで「われらに自由を!」と叫ぶひとがいたら、それは生活のなかにしっかりあるのですよ。と言わねばならない。ただ、それは、わたし自身によるわたし自身におよぼす行為であってもわたしの思い通りにはならない。眠りはわたしの外側にある。

まぶたが降りるという、社会的活動を一時的に遮断する時に、現れる「わたし」の記憶について考えることは、いまお気に入り の、遊び道具のようにしばらくそばに置いておくかもしれない。何か見えればいいけど、たいてい身構えると捕まらない。







drawing -
inner-mountain2020
water color


2020年2月17日月曜日

メッセージはメディアとなった 印刷はなんのために?

 遠い昔の、学生時代。わたしはカリカリと銅版画を制作しつつも、オノヨーコの、アート作品に憧れていた。

 いまでこそ、日本の現代美術館で企画されることも少なくないけれど、そのころ、オノヨーコはまだ、ジョン・レノンと結婚し、ビートルズを解散させた(といわれる)最も有名でスキャンダラスな日本人女性...なのだった。誰も、アーティストとしてのオノヨーコの作品になど興味をもってはいなかった。わたしが、ぼろぼろになるまで眺めたのは、飯村隆彦Yoko Ono―オノ・ヨーコ人と作品』だ。とにかく、その作品は詩的でコケティッシュで、愛らしさを保ちつつ、鋭くこちらへ挑んでくるものだった。そして、わたしは初めて、アートのなかにある愛らしい切実さというものを知ったのだった。
 その本のなかには、オノヨーコのインタビューが載っていた。彼女がひたすらメッセージ(たとえば-WAR IS OVER-)を発信しつづけることについてふれ、「マクルーハンはメディアはメッセージであるといったけれど、わたしはメッセージはメディアであるといいたい」と語っていた。
 個人発信の拡散が容易になったいまになって、メッセージがメディアになりうることは、現実となった。

 メッセージはメディアであるという考え方は、わたしのこころの深くに刺さった。表現はいつも足下から、小さな個人のことばの域はでないが、その広がりは無限になりうる。版画という、一種の複製芸術の世界に入り始めていたこともあって、広がる可能性については、なんとなくではあるが肌感覚のなかにあった。悲しいかな、力不足で現実的にその広がりは乏しかったが、オノヨーコの考え方は、なにより、自分の無力さを嘆くこころを勇気づけてくれるものだった。
 少しずつではあるけれど、手動の印刷手段による本づくりの準備は始まっている。プリンターのほうが早いとか、いまの印刷は安いとか、いろいろあるのだけど、例えば風合いとか、スタイルとしてこういうやり方を選ぶというより、このときの「メッセージはメディアである」という言葉との出会いが、大きかったといま考える。

 わたしは表現することで何がしたいのか...何を見つけたいのか...おそらく何かと何かの間にある無の空間。あるいは負の空間のありようを探りたいのだと思う。そのネガをどれだけみつめていられるかということ。
 例えば、ノートルダム寺院を例にとり「書物はかつて建築だった」といったのは、ユゴーだった。では、建築と本の間には、何があるのか。ということ。あるいは、機械と手の間にはなにがあるのか。原本とコピーの間にはなにがあるのか、平和と戦争の間にはなにがあるのか、個とシステムの間にはなにがあるのか...まだはっきり何とはいえないけど、闇になかに手を入れてずっと探っていたいと思う。

 いまやろうとしている、アナログの印刷による冊子の作成は、そのこと自体がメッセージとなればと思いながら取り組んでいる。これは、個人の手と複製と拡散によるメッセージの遅延を目的としている。どれでもないスピード感でメッセージを送ってみたいのかもしれないし、単なるへそまがりの居場所さがしなのかもしれない。