2023年3月19日日曜日

生々しい二つの異国

 最近行った展覧会のうち印象的だったものがふたつあった。
 ひとつは千葉市美術館の「亜欧堂田善展」、もうひとつは東京都美術館の「エゴン・シーレ展」。    

亜欧堂田善は、知る人ぞ知る、銅版画の日本の創始者のひとり。 
 日本で はじめて銅版画を制作したことで有名なのは司馬江漢だが、田善はその司馬江漢に弟子入りを断られたにもかかわらず、独学でその技術をものにし、のちに司馬江漢から尊敬の言葉をうけとるまでになる。 
  その技術の高さから、実際には、亜欧堂田善のほうが日本の銅版画家の祖といえるのかもしれない。わたしも銅版画を制作するもののはしくれとして、興味津々の展覧会だった。

  田善には、銅版画をなんとしても作らねばならない理由があった。松平定信からの直接の命令だったのだ。松平定信は、銅版画を芸術としてではなく、藩のための印刷技術として、主に精巧な地図の制作のため、田善に研究開発を託した。 なんらかの経路で手に入れたオランダの銅版画を見た松平定信は、度肝を抜かれ、その技術を手に入れたいと強く思ったのだろう。 亜欧堂田善は、芸術的な憧憬の念から銅版画をはじめたのではなく、藩のために手に入れなければならない異国の技術として研究したのだった。 
 
  展覧会において田善の模写を観ながら、わたしはなにか不思議な違和感のなかにいた。木版画や岩絵の具とちがった、銅版画や油絵特有の空気感のようなもの。たしかにそれはあるのだけど、なにかがやけに生々しい。  
 江戸時代の日本人にとって、異国は憧れより以前にいびつで畏怖すべきものであったに違いない。美意識の介入がないまま模写された版画や油絵は、絵画と呼ぶにはあまりに所在ない。

  いまのわたしたちには、近代以降に育まれた西洋への特別な思いといったものがあるように思う。文化的な憧れだったり、それゆえに生まれてしまった劣等感だったり。けれど、少なくとも、驚嘆はあったとおもうが、異文化へ憧憬の想いが深まるためには、その出会いからもう少し熟成の時間を経なければならない。歴史に裏打ちされた「われわれの美意識」というものがこの世の最良であるとする狭小な視野のなかで、異国の文化は異物として主役である「われわれ」の背景にすぎなかったのだろう。 ヨーロッパ人からすれば、未知の、あるいは未開の国のものたちが、自国の美意識に誇りを持っているなどと思いも寄らないのかもしれないが、琳派、狩野派や浮世絵があれだけ研ぎすまされた美意識のもとに作られているのに対して、司馬江漢にしろ田善にしろ、技術がないからだけとはいいきれない、西洋文化に対するわからなさというものが、あのつたない、美しさとはほど遠い模写にあらわれているように思う。もちろん、技術的なものもあるとはおもうが、後の渡仏した画家たちの堂々としたさまにくらべると、あまりにも不安定である。
 その生々しさを私は面白いと感じた。日本の美術は主に伝承によって磨き上げられたものである。だからそこに個人の息づかいのようなものみつけることは難しい。けれど、形式張った美意識からはずれたあの模写には、まるで田善が目の前で画面に立ち向かって仕事をしているかのような時間を超えた息づかいが残っている。
ただわたしは、日本の、とか、国の、とか、そういった曖昧な共通意識についての知識も興味もあまりないので、そのころの人々が本当にどうおもっていたのかは、わからない。わたしがいいたいのは、かえって未消化のまま模された異国の絵が、観念的にではなく、感覚と感覚だけで受け渡されているのを目の当たりにした、愉快なこそばゆさについてであった。

 

 もうひとつの「生々しい異国」とは、エゴン・シーレからみた日本だ。
エゴン・シーレ展で、ある絵の前で思わず立ち止まる。先日の亜欧堂田善の模写を思い出したのだ。それが、この絵。美術館のキャプションでは、「クリムトの絵を模して」というようなことがかいてあったけれど、あきらかに日本の屏風絵を模したものだとおもう。金箔が貼られたためにできる格子状の模様を、筆致でなんとかあらわそうとしている。真ん中の植物も随分、デフォルメされているが、木を削ぎ落としたような表現もまた、東洋画の対象物をきゅっとフラットに描く表現に近づいている。おそらくエゴン・シーレは、クリムトの絵をみたのではなく、直接、日本の絵の写真をみたのだろう。ただ、ゴッホやマネが明らかにジャポニズムを意識して積極的に模していた絵よりも、どこか懐疑的で、さぐりながら、異物を自分のものに翻訳しようとしている。まだ咀嚼しきれず未消化のまま画布にあらわれた、やはりこれも生々しい異国なのだった。



 



2023年1月28日土曜日

理想の髑髏をさがして

 なぜか、年明けから、ちょっと髑髏を描いていた。
きっかけは些細なことだったが、なんとなく描いてみたものの、どうしても「メキシコ」になってしまう。
あのどこか、とぼけた、まったく怖くなくて親しみのあるガイコツになってしまうのだった。石膏像を描くと自分の顔に似てしまうというのがあったけど、ガイコツもしかり。 いや、どちらかというとガイコツは、誰が描いてもとぼけた感じにはなるのではないか。ガイコツの存在自体がそのような生者をあざけるような雰囲気をすでに纏ってしまっている。なんか、笑われているみたいな気がする。でもまあいっか、相手は死者で、しかも出来上がっているやつ、つまり骸骨なんだから。

理想の髑髏像はどういうものだ。と、ふと考える。
わたしとしてはいずれヴァニタスのような世界があらわれてほしい、などと思ったけれど、虚無やメメントモリとはほど遠い。ただ心からそれほどの、重さを求めているわけでもない。あざけ笑う骸骨も嫌いではない。

と、ぼんやり思っていたら、先日行った智積院の名宝展において、出会ってしまった。
理想の髑髏に。

それは大威徳明王図において、明王の首飾りと冠を飾っている髑髏たちだった。
とぼけているわけでもないが、したり顔(髑髏にそんな表情があるとして)に憂いを帯びているわけでもない。そのニュートラルな骸骨ぶりが、ずずっと胸にささった。

あとでネットでじっくり見よう。と思ったのだが、いくらぐぐっても、あの時展示でみた大威徳明王図は出てこない。
簡単に見ることができないというのも、理想として申し分ない。といえなくもない。

ちなみに、この図はそのとき響いたものとはまた違うのだ。
もう会えないのかしら。あのどくろたちに。












2023年1月12日木曜日

2023年もよろしくお願いいたします

 


 本年もどうぞよろしくお願いします。

 今年は版画以外の技法をつかった絵も描いていくことになりそうです。

  個展は5月〜6月 ごろに、挿絵の原画などを中心に開催予定です。

 近くなりましたらまたご案内します。

 週末の絵葉書屋はあいかわらずの不定期openですが、引き続きどうぞよろしくお願いします。 

1月は21日(土)、28日(土)があいております。

2022年11月8日火曜日

草活版印刷者

 もう何年も前から、活版印刷をかじっていて、少ない活字で作品をつくったりしていたのだけど、なんとなく自分がちゃんとした活版印刷の技術や設備を持っていないので、それで「活版印刷やってますよ」みたいなことは言えないなと、思っていた。
 印刷技術をもった方々の仕事が薄紙一枚のスペースの調整を行うようなミクロの世界だったので、自分はやるべきじゃないという気持ちになってしまっていた。

 けれどふと、野球だって....プロのように豪速球が投げられるわけじゃないけど、野球を楽しみたければ草野球という世界があるように、活版印刷を好きに楽しんでもいいのでは....?と思った。実際、わたしが使っているADANAという活版印刷機は、個人で楽しむためのものなのだ。いわば昔の家庭用プリンター。楽しくつかいこなしていこう。

 なので、幾文堂プレスとして、版画と活版印刷のカードを制作することにしました。
 11月中には、絵葉書屋で、12月にはノエルの贈り物展にて、出品できると思います。
 
 印刷するのは週末。その日に心にひっかかった言葉を印刷して、挿絵を描いて、カードにします。

 もし、印刷してほしい言葉のリクエストがありましたら、下記にメッセージを送ってください。詩片でも、グリーティングでも。固有名詞以外でしたら。



 

2022年9月23日金曜日

ヤンソン・サンドウィッチ

トーベ・ヤンソン・コレクションの再読。ヤンソンさんが続くと、わたしは結構メンタルきつくなっていくので、間にいろいろはさみむのだ。ヤンソン・サンドイッチ方式で読み進める..。

『誠実な詐欺師』は最初に読んだときと印象が違っていた。最初に読んだときは、ボートが少しずつできあがっていくところに、どこかわくわくするような感情を抱いていた。湖の光や、マッツの無垢な心など。どちらかというと穏やかな読後感だったのだ。

 再読して、カトリの目的のために徹底的に策略を練り、実行を遂行する隙のない性格と、アンナのおおらかなのか無神経なのかわからない隙だらけの性格、そのぶつかりあいは、結構、きつい話でもあった。人間関係のしんどさはいつもトーベ・ヤンソンの世界にはむきだしに現れる。あのムーミンの可愛らしさとは、ほど遠い。(ほんとうはムーミン谷だってそうなのに...。世界中の読者の偏見にふりまわされいらだつアンナは、どこかヤンソンの投影でもあるのだろうか)

 けれど、ふっと心がほぐれる瞬間がある。
 たとえば、カトリが弟のマッツに内緒でボートをボート職人に注文したとき、彼はまわりにそのことを内緒にすべく嘘をつく。そのときの、
「この嘘は、一目おく人間に贈りものをするのと同じくらいごく自然に、口をついたのだった」
 という表現。村の人々は、カトリを頼りつつも、アンナに対する詐欺まがいのふるまいに、冷たい視線を向けていて、彼もそのひとりでもあったのに、カトリの弟に対する愛情を知って、心がほぐれた様子がこの一文でわかる。なんだかほっとした。
 わたしはいつのまにか、カトリに心を寄り添わせようとしている。普通に考えたら、ちっとも好きになれない女の子のタイプのはずなのに。しかも犯罪まがいのことをしているのに。

 ふとなぜか、映画『万引き家族』を思い出した。どこにも似たところはないのだけど、あの映画の、あの家族は、世間の目から見れば、犯罪に手を染めたとんでもないやつら。なのだけど、それぞれの心のうちに隠し持つ、競争社会にはとうてい打ち勝てない弱者が同じ弱者にむける共感と優しさのようなもの。や、なんで、たくさん持っているひとと、持ってないひとがいて、持っているひとはそれを有効に使えもしないのに、使えるひとが勝手にそれをしようとすると、避難されるのだろう。そもそも、お金や経済システムは間違っているのでは?とまで思わせてしまうなにか。それがこの物語にもあった。

 カトリの犬もまた何かを象徴していた。従順にさせることで、犬が生きやすくさせているというカトリの気持ちを逆なでするように、アンナが犬に好きに遊ぶことを教えてしまった。そのため、犬は混乱し、野性のもののように遠吠えをするようになり、やがて森にかえってしまう。再読して、そこに物語の奥行きと深さを感じた。野性を愛し、そこに帰りたかったのは、本当はカトリだったのかもしれない。現代の生きにくい世界と徹底的に組みしようとする誠実なカトリだからこそ。などと、思ってしまった。







 
 


 



 

2022年8月25日木曜日

朝日新聞連載小説『白鶴亮翅』多和田葉子著が終了しました

 この半年間、挿画を担当させていただいた、朝日新聞の連載小説『白鶴亮翅』多和田葉子著は8月14日に最終話をむかえ、終了しました。
 はじめて新聞小説を毎日楽しみに読んでいる。という声もいただいたり、多和田葉子さんの、小説の魅力をあらためて感じながら、挿絵を描かせていただきました。

 半年というのは長いようで短くあっという間ではありました。版画という技法をつかって毎日の挿絵を描くのは、無謀ではありましたが、今思えば、版画でやってみてよかったと思います。内容によって技法を変えているので、雰囲気のばらけた感じがあったかと思います。自分ではいいとおもっていたのですが、果たして...

 多和田さんの描く女性の日常は、不思議な奥ゆきを度々見せてくれて、くすっとしたり、そうそう、とうなずいたり、難しい問題について考え込んでしまったり...とてもいそがしく、それは、とても楽しい忙しさでした。挿絵となると、描くのが難しいものもありましたが、楽しんでいただけたのだったら嬉しいです。多和田さんには、ベルリンから、実際の太極拳教室の様子や蔵書の写真など送っていただいたり、ファンとしてはこのうえない嬉しい交流がありました。そして、実在の場所や史実がある場合、ほんのちょっとしたカットを描くにも、間違っていはいけないので慎重にせねばならず、そういう経験はあまりしてこなかったので、とても新鮮でした。

 挿絵は、そのうち、全回分をウエブなどで公開できたらとおもいます。
 これからも多和田文学から目が離せないですし(『太陽諸島』ももうそろそろでしょうか)、そういう日々の楽しみがあることが、生きていく理由のように思います。

 最後のシーンは雪のベルリンでした。
 猛暑のなか、小説からの涼やかな贈り物のようでした。




 

2022年8月5日金曜日

ice cream castles

先日ネットで映画『Coda』を観た。青春映画、好きなのです。。  

最後に主人公が歌うジョニ・ミッチェルの『both sides now』 がなんだか久しぶりに心に響いて、それからよく聴いている。ジョニの声が好き。
 例えば、つらいときにはいつでも私を呼んでよ、と歌うキャロル・キングの優しさも好きだけど、この歌の凛とした哲学的世界は、なんだかいまの自分にとても沁みてくる。 なにかに頼ろうとやたら触手をのばして喘いでいるのは、多分、コミュニケーションツールが増えたせいなのかもしれない。 

 この歌詞のなかのicecream catsleという言葉が好き。 

同じように、可愛い言い回しで好きなのが、across the universの最初の 「言葉たちは止まない雨のように紙コップへこぼれおち...」というところ。グラスでもマグカップでもなくチープな紙コップから...universは繋がっている....。  

いま熱波で熱い日々。icecream catsleがどこかにあるなら、しばらく籠城したいと思う。 

 Rows and floes of angel hair 
And ice cream castles in the air 
And feather canyons everywhere 
I've looked at clouds that way
 But now they only block the sun 
They rain and snow on everyone 
So many things I would have done 
But clouds got in my way 

 I've looked at clouds from both sides now 
From up and down 
And still somehow 
It's cloud's illusions
 I recall I really don't know clouds at all