2022年2月9日水曜日

ある日の保土ヶ谷体験

 
 
日々のくらしのなかで、なんでもないことなのに、いつまでも印象が薄れない体験というものがいくつかあって、そのなかのひとつに「保土ヶ谷体験」と名付けてみた。
 
数年前から、北鎌倉に小さなアトリエを構えていて、版画以外の作業をできるようにしている。使い勝手がいいとは言いがたいのだけど、そこへ行くことは、少し日常とは離れた時空を得ることになり精神衛生上とてもありがたい。自宅からおよそ30分、クリーム色と紺色のツートンという地味ながらも鉄のかたまりらしい重厚さと品のようなものを纏った横須賀線にゆられていく。数時間、wifiもなく、誰もいないアトリエで作業をして、静かにまた電車にのって、帰る。  横須賀線はJRだが、家のある私鉄沿線沿いとはややちがった趣がある。野性味というのか。だから、停車駅にも野性味がある、と、私は勝手に思っている。北鎌倉から、大船、戸塚、東戸塚、保土ヶ谷、横浜と停車するとき、わたしは頭の中で、それぞれの駅にまつわる思い出というのか、記憶を、毎回毎回、飽きもせず、呼び覚ましては確認している。そうでないと、野性味のある薮のなかに途中下車してそのまま迷子にでもなってしまいそうだからだ。  それぞれの駅には、それぞれの記憶がある。が、ただ、保土ヶ谷にだけ、なんの記憶もない。記憶のないどころか、保土ヶ谷っていったいなんなのだ。という感情さえ抱いていたりする(失礼な話だとはおもいつつ)。戸塚にも横浜にもなにかしらの記憶や思い出、あるいは、その街に対するイメージとそれらから想起される感情のようなものがある。豊かすぎるほどにわき上がってくる。ところが、保土ヶ谷にはまったくそれがなかったのだ。保土ヶ谷に停車する度に、ただ、ああ、もう横浜なんだな。と、思うだけだった。  ある日のこと。わたしは、買ったばかりの多和田葉子さんの新刊『星に仄めかされて』を、横須賀線のなかで読んでいた。わたしが、多和田作品ですごく好きなのは、言い回しや視点が、息つく暇もないほど、とめどなく面白いこと。頭の中のいつもは閉じている部分が、天体観測所の望遠鏡が出るとこみたいに、ぱああああっと、開いていく心地がするところだ。  その時も、わくわくしながら読書していた私は、どこかの駅に停車したことを察してなんとなく顔をあげた。すると目の前に「保土ヶ谷」という駅名看板が現れ、さらには、その「保土ヶ谷」という文字がばあっと輝いていたのである。その時私は、ああ、そうだ。保土ヶ谷ってものすごく面白いところ、夢の国だったじゃない。おお、素晴らしき地、それは保土ヶ谷。と、思ったのだ。 ほんとにそう思った。 何でそう思ったのか、未だにわからない。その時、きらきらしてみえた保土ヶ谷はなんだったんだろう。 今も思い出しては不思議である。おそらく、読書によって開かれた意識から派生した感覚なのだろうけど、なぜ、それが保土ヶ谷にのっかったのか。 ちょっと思ったのは、小林秀雄の『モーツアルト』だ。でもそれとも違う。 いずれにしろ、その日からわたしのなかで保土ヶ谷は魅惑の未踏の街となった。