2020年12月22日火曜日

ノエルの贈り物展@国立watermark arts&crafts

 国立watermarkで開催中の第7回 ノエルの贈り物展 (12/11金 ~25金 open:13:00-19:00 close:月・火曜日)webshopでもご購入いただけます。私は水彩で描いた鳥の絵を出品しています。一点ものなので、版画とはまたちがった雰囲気を楽しんでいただけたらと思います。

どうぞ、よろしくお願いします。



リンク先の下へスクロールするとショップになっています。収益の一部が寄付となります。

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2020年11月25日水曜日

シャボンの惑星

 先日、北条民雄『いのちの初夜』を読んだ。ずっと、手に取らなかった小説である。手に取らなかった理由は、タイトルの迫力にあったと思う。ただ、なんだか、怖かった。

 なんとなくなかなか読まない。そういう本はいくつかあるが、あるときふっと開いて、あっけないくらいするっと読めてしまう。

「いのちの初夜」は読んでみれば、瑞々しいものだった。瑞々しいというのはわざとらしい言い方かもしれないけれど。絶望の淵にだけ沸いている誰も触れることが出来ない力強い湧き水のようだった。

 北条民雄はハンセン病患者として療養所(隔離所である)で生活をしながら、執筆をしていたことで知られた作家である。病気のイメージがどうしても、作品と出会う入り口になってしまうのは、仕方のないことかもしれない。ハンセン病は、病そのもののみための特徴のみならず、風評や法によって長い間隔離と差別をされていた、少し特殊な病だからだ。しかも、そのみためによるところが大きく影響して、なにか、ひどい負のイメージが塗り籠められてしまっている。北条民雄は、その裏には気の遠くなるような感情に支配されていたのだろうとは思うが、徹底的に塗られてしまった負のイメージに怒るでもなく、抗うでもなく極めて客観的に、受け止めようとしているようにもみえる。自死を冷静に遂行しようとするさまにも、感情の昂りのような様子はなく、それがかえってリアルだった。

 この世には沢山の差別や偏見に満ちあふれている。コミュニティの大きさに関わらず。自分だって、何も持っている訳ではないので、例えば他愛のない、容姿のことや、学歴のことなどでいやな目にあったこともある。外国へ旅行すれば、人種差別としてちょっとしたやな目にあうこともある。しかし、それは、ほかのことで紛れるような一時的なことである。気にしないか、そういう目にあわない場所や人を選べばいいだけだった。

 けれど、患者たちは、逃げ場を取り上げられた。逃げられなくなった魂は浄化を目指した。魂は尊い動きをする。他人が触れなければなおのこと。まるで手つかずであるほどに自然が美しいように。ただ、そんな美しさなんかより、自由になりたかっただろう。いのちだけの存在になっていくのはたまらないだろう。俗に汚れることもまた、生きる楽しみであるから。

 いずれにせよ、当事者ではなかったものには、とうていわかろうはずがない。それは、どんな差別や病や被災や被害者にもいえることだとは思う。

けれど、到底他人には理解することのできない状況に置かれてしまった人々を知った時、わたしはいつもわたしも彼らも、色という世界のなかのグラデーションのなかにいるのだと思うようにしている。

わたしたちはグラデーションのなかにあって、それぞれ色は違うが同じ地平に立っている。

あたかもシャボン玉の表面のように、さまざまな色が移ろっている惑星で、時に青くなったり、紫がかったり、赤くなったりている。誰の間にも、線がひかれているわけではない。ひとりひとりが立っている。線のようなもので繋がっているわけではない。ただうつろいの色のひとつひとつにすぎない。

シャボンの表面では、めまぐるしく色が変わる。

差異があったとして、それはめまぐるしくかわっている。

それが変わらないとおもっている停滞した心が、差別に対する鈍感さだと思う。

わたしたちはシャボン玉でできたこころもとない惑星の表面で、

レイヤーがあるわけではなく、緑になったりオレンジになったり変化しつづけている。


北条民雄が受け入れたものってなんだったのだろう。

ただ、差別を叙情や感覚のなかに収束させてはいけない。そのほとんどは、人為的なシステムによるものでもあるのだから。






 





2020年11月23日月曜日

peace peace peace

先日聴いた、ヨーヨー・マの配信ライブの最初の曲が「鳥の歌」(カタルーニャ民謡)でした。
チェロ奏者パブロ・カザルスが、フランコ政権容認への抗議としての14年間の演奏拒否を解いたとき、1971年に国連で演奏した曲です。カザルス96歳でした。
で、ヨーヨー・マの「鳥の歌」がめちゃくちゃよくて....。ヨーヨー・マはカザルスの反骨と平和への想いに寄り添っているようでした。

リンクはカザルス演奏の「鳥の歌」です。心に染み渡るようです。
「鳥はpeace peace peaceと鳴くのです…」(カザルスのスピーチより)

peace peace peaceというタイトルで鳥の水彩画を描きはじめました。
12月の国立watermarkでのグループ展に出品する予定です。お求めやすい価格設定をするつもりですので、この機会に是非よろしくお願いします。詳細はまたupします。














 

2020年11月11日水曜日

わたしとポットの静かな攻防戦

 冬になると欠かせないのが、保温ポットです。
 朝、やかんにたっぷりのお湯を沸かして、紅茶のパックと一緒にこのポットに入れます。多分1Lくらい。それを持って、作業場に詰めるのです。動き回っているときは、それほどお茶って飲まないのに、なぜか、ずっと座って絵の作業をするときには、行き詰まりがちなのでしょうか。落ち着きない感じでやたらと飲みます。
 このポットは、もう十年以上使っていると思うのですが、こういうがっしりしたブツを捨てるのがなかなかできません。捨ててしまえば、これが、ずーっと腐りもせず、夢の島みたいなところで、ひゅーっと風のなかで、何年も転がっているような気がして、捨てられません。環境問題をいつも意識しているわけではないのですが、この大きさがまた、どことなく中途半端にそんな気持ちにさせるのだと思います。
 いや、使えるのだし。注ぎ口は割れてしまったけど、使えるのだし。保温力は2時間くらいしかもたないけど、まあ、使えるのだし。という気持ちで、とくに気に入っているわけでもないこの安物のポットを使い続けてました。

 ところが、いよいよこのポットと別れる時が来ました。その決意を促したのが、「騒音」です。
 このポット、音がするようになってしまったのです。熱いお湯で中の空気が膨張する時、とうとう漏れるようになってしまったようです。それが、なんだか毎回いろんな音がするわけです。「しゅーしゅーしゅー」とか「ひぃいいいいい」とか「ぴしゅぴしゅぴしゅぴしゅ」「ぽっぽー」といった具合です(だいたいです)。

 さすがに、ポットさん、もうちょっと静かにしてくれませんか...と思い始め、ネットをなんとなくみていると、12時間くらい熱々のお湯をキープできると豪語するポットたちが沢山あるではないですか。しかもおしゃれで、しかも2000円足らずで。いよいよだな。と思って、ぽちりました。翌日には届くとのことで、旧ポットはキッチンのごみばこの横へそっと置きました。

 翌朝、なんとなく、ヤマト来たかなあ。と思っていたのですが、そのまま作業をしてました。わたしは、宅配は置き配に指定しています。ドアの前にそのまま置いといてもらうのです。いつものことなので、昼過ぎにドアを開けてみましたが、何もなくて「まだか」と、思っていましたが、気になって配送状況を見ると、配送済みになってました。

なんと、新ポットは何者かに持ち去られたようです。はじめてです。かなりショック。

というわけで、今朝もまた、旧ポットへたっぷりお湯を入れました。

ところがですね、今日は例の騒音がしないのです。なんていうか、かしこまっているというか。おとなしくなっている。「これからも、よろしくお願いします。ね」と言われているようです。
まさか、まさか君が...?

 

 



 

2020年10月7日水曜日

点睛をさがして

絵本の仕事は、まだ四合目ですが、だいぶ版画のイメージの落ち着き先がみえてきました。
それがまったくみえなかった数ヶ月前からすると、こころは平穏です。あとは、時間との戦いだけ。ビジョンが見えていれば、とりあえず時間とは闘える...。

 この数年、INNER MOUNTAINというシリーズのドローイングをしていて、「心の山の風景画」というものを描いていました。(内容についてウエブマガジン「水牛」に拙文を寄せています。)
つまり、いままでのようなイラストレーション的な雰囲気での銅版画の仕事から、より絵画的でカラフルな抽象画へ移行しているところでした。
 もちろん、ひとりの人間がやっていることなので、具象でも抽象でも、その内面的なものはでますし、それらが私という地下茎で繋がっていることは確かです。それら一見ばらばらな作業の接点を探り当てて、またあらたな展開を試みようとしているところでした。

 なので、がっちり銅版画を作るということは、進もうとしているところを引き戻されるような感覚でもあり、どう対応したらいいのか、どういう制作プランをたてたらいいのか、突如混乱してしまったのです。ムカデが足をどううごかしてたのかわからなくなってしまったというかんじです。絵本制作という憧れていたことが現実となり、プレッシャーも相当ありました。

 おそらく、コロナうつにもなりかけていたと思います。その混乱から落ち着けたのが、編集者Fさんの「自分の手を信じましょう」という言葉でした。
 これがてきめんで、わたしはようやく、銅版画との向き合い方をあらため、制作の息を吹き返したのでした。

 版画は手順がとても大事ですが、銅版画の制作手順の見直しは、当然のことながら絵に影響を与えてきました。ただ、それが、なんだか面白くも思えて、いままで自分がどんな銅版画をつくりあげたかったのか、まだ追求し終わらないうちに画風を替えつつあったことがわかりました。つまりわたしはまだ、いままで自分の版画をひとつも作っていなかったのです。愕然というよりは清々しく感じています...。いいのですきっと、その時期が早くくる作家もいれば、わたしのようにとても遅いものもいると思います。まだまだ改変して、自分の絵をつくりあげなければと思いました。

 絵を描いていると、つくづく答えのない世界であることを感じます。外からなにかを持ってくるとすべてがくずれてしまうのです。
 新しい画面をむかえたら、そのつどなにもない空間のなかに点睛は探し歩かなくてはいけません。近道や楽な道はひとつもありませんが、鼻歌のレパートリーは増えていきます。
いつもはじめの一歩から。

 

 道ばたの秋のタンポポです。





 

2020年9月22日火曜日

Here and Heaven



ヨーヨーマ率いるGOAT RODEO
ちょっと哲学的な深みを持った世界なのかな、
韻のせいもあるのか、私には難解な詩。
移民たちで結成されている故か、
それぞれのルーツを孕んだ
音たちがボーダーレスに駆け回り、
じゃれ合って大地を吹き抜けていくよう。
GOAT RODEOの音楽には、不思議な心地よさがあります。

今日は、お墓参りへ。
北鎌倉から歩いて建長寺前の菩提寺へ、
お参りして、いつものミョウガのお裾分けをいただき、また歩いて鎌倉へ。
途中、老舗店の閉店をいくつか知ることに。
時間が流れていたのを感じました。

Here and Heaven
With a hammer and nails and a fear of failure
we are building a shed
Between here and heaven between the wait and the wedding
for as long as we both shall be dead
to the world beyond the boys and the girls trying
to keep us calm
We can practice our lines 'til we're deaf and blind
to ourselves to each other where it's
Fall not winter spring not summer cool not cold
And it's warm not hot have we all forgotten that
we're getting old
With an arrow and bow and some seeds left to sow
we are staking our claim
On ground so fertile we forget who we've hurt along
the way and reach out for a strange hand
to hold someone strong but not bold enough to
tear down the wall
'Cause we're not lost enough to find the stars aren't
crossed why align them why fall hard not soft into
Fall not winter spring not summer cool not cold
And it's warm not hot have we all forgotten that
we're getting old






2020年9月18日金曜日

colours

オオカミの絵本制作中に、

日本の狼バンド、MAN WITH MISSION聴いてみる。

こんな瀟洒で暖かい曲もあります。

- colours -

https://youtu.be/5VheJULVfNU



 colours

dark red The colour of your blood drawing the wrist
cobalt blue The colour of the sky holding it all
pale purple Umbrella, you keep from me trembling
true orange Everything coloured by the setting sun
chrome yellow You said to me it calls us happiness
moss green The hills of our town which kept us there
scarlet The colour of the children's cheek you loved
snow white It covered every sorrows among us
Colourful world we had been everywhere we're standing
Coloruful world we had lost everything
But you were standing, you were breathing just there
Under that each colours
Every light on the street had meaning of each story
Everyone believed in life day by day
But we would start it, we must start again ourselves
Put on the new colours again
light blond You showed me your calm hair proudly
bright gold The picture frame you always smile at me
silver The carved spoon we bought to start our life
dull grey I dyed all in all after you have gone
transparent The heart of the baby born today
flesh colour Seeing my hand grasped tightly
all black The colour of beginning of new days
deep brown Walking this land we have to go forward
Colourful world we had been everywhere we're standing
Colourful world we had lost everything
But you were standing, you were breathing just there
Under that each colours
Every light on the street had meaning of each story
Everyone believed in life day by day
But we would start it, we must start again ourselves
Go on the road
good bye

2020年8月19日水曜日

蝶とぬるいビール

夏に蝶を見ると、思い出す場面がある。

二十年前の夏のおわりに大好きだった祖母が亡くなった。私と母は、納骨のために祖母の故郷であり、母の生まれ育ったところでもある長崎へ向かった。横浜に住んでいた私たちが長崎に行く機会はほとんどなく、なにかこういうことでもなければ、母ももう長崎には行かなかったかもしれない。

 長崎に親戚は多く、納骨を終えて、わたしと母は三人の叔父と、その従兄弟で長崎県瀬戸に住む濱太郎おじさんを訪ねた。叔父たちも横浜に移り住んでしまっていたので、かなりひさしぶりの参集だったことと思う。

 濱太郎おじさんは長崎の瀬戸で医院を営んでいる。瀬戸には海と山があり、はじめて訪れたわたしはその空と海の青の濃さが不思議でならなかった。ほんとうにこの空は私の住んでいる町とつながっているのか、と。医院はこじんまりとしていたが、レトロモダンなとても好ましい建てものだった。
 母たちと濱太郎おじさんは、子供時代の話におおいに湧いていたが、どことなくその場所には不思議な空気が漂っていた。普段は貫禄があってとがった感じの叔父たちが、なんだかちょっと緊張しているようにみえたのだ。あとで母に聞くと「はまにいちゃんのことが、みんな大好きだから」と言った。濱太郎おじさんは、子供のころから、母たちにとっての憧れのお兄さんだったのだ。叔父たちは出されたビールにあまり手をつけてなかった。グラスはしっとりと汗をかいていた。

 共通の話も持たないわたしは、キッチンの手伝いに行くふりをして、医院のなかをうろうろした。中庭に面した廊下に、細長い引き出しがたくさんついた大きな木製家具があった。一体なにが入っているのか、ついその一つを引きだしてしまった。
 その中には、おびただしい数の蝶の標本が気の遠くなるような整然さで並んでいた。

 濱太郎おじさんは蝶の蒐集を趣味としていたのだ。以前、祖母を訪ねてうちへ来た時も、鞄から組み立て式の虫取り網をだして「いま、なんかおったようで」といって、皆を驚かせた。
 どこへいくにも網を持っているのだそうだ。どこで、珍しい蝶に会うかわからないからということらしい。

 ぬるくなってしまったビールを前にした、おじたちの話は、濱太郎おじさんがおもむろに席をたったことで中断された。
「どげんしたと?」
「いま、蝶の見えたけん」
 濱太郎おじさんは、中庭に面した廊下に立った。
「いや、見間違いか」
「はまにいちゃんは、いつも蝶ば追いかけよるなあ」
「ほんとは、夜の蝶も追いかけとっちゃなかね?」
 一同が笑う。真ん中のおじの常套冗句だ。

 濱太郎おじさんは、おじたちの父親、わたしの祖父の話をした。祖父もまた医者だったので、 自分がどれだけ影響を受けたのかという話をしてくれた。ただその祖父は 軍医として激戦地に赴き、そのまま帰らぬひととなった。一家の主を失ったおじたちは、預金封鎖により一文無しになり、学業そっちのけで働き、祖母を支えた。どれだけ大変だったのだろうと思う。

 わたしはそのとき、やっぱり蝶は中庭にやってきていた気がした。
 蝶は死者の魂を載せているときいたことがある。ゆらゆらと空間を裂いていく蝶は、どこか異界と通じてるようにみえる。あの時の、蝶の幻と、ぬるいビールと、戦争に分断されてしまった少年時代を、恨みごとを押し殺して懐かしむおじたちの姿を、 夏になるとふっと思い出す。
 ひとは美しい思い出を持つ権利がある。だから、思い出したくないことをつきつけるつもりはない。でもだからこそ、無為な哀しい思いをうむようなことに抗いつづけなくてはならない。
きらめく夏はたくさんの犠牲の上にある。









2020年7月29日水曜日

星みる星はこの星の星

多和田葉子著『星に仄めかされて』を読みました。

もともと本を読むのは早くないのだけど、多和田葉子さんの本を読むときはとりわけ遅くなる。

少し読んでは立ち止まって、その言い回しの妙にしばし浸ってしまう。
ついつい立ち止まらせるような表現が、それこそそこかしこにちりばめられているので、

さらさらとさくさくと、噛み下してしまうのはとてももったいない。

そうしてもたもたしているうち、 登場人物たちに翻弄され、アンビバレントな感情のなかに引きずり込まれる。混乱するけれど落ち着いて、冷たいのに暖かく、鋭いのに鈍く、エロティックなのに醒めていて、生真面目なのに馬鹿馬鹿しく、やがて、なにも手渡されないのに、確かなものが残される。わたしの語彙ではとうてい語ることはできないのだけど、それが、なにがしかの本質ではないのか、とふと思う。

星々はどこか微妙な均衡をもって繋がっている。
その星座をたどっているだけなのに、読書の間、幸福感につつまれる。
苦々しい人生のなかで、対話と関係性によってひとは、その身体のなかにときおり甘い風を通過させて生命を維持しているのかなと思う。
そう思わせくれる作家に、なにかとてつもないゆったりとした愛を感じて、やさしい心地になる。
どこかの星をみているわたしもまた星で、瞬いているものだとよいなと思う。



幸福な対話の数々が空洞の空間に存在のない存在として在る。三部作の二作目ということで、次への予告も感じさせる終わり方。早くも続編が待ち遠しいです。

彼らの行く手を早く知りたい。


雰囲気が出るかなと思って、ライトテーブルの上で本の写真をとってみました。


2020年7月26日日曜日

美術館は今日も映えているのか

連休となると、ついそわそわする小市民です。

先日は、東京都現代美術館で開催中、オラファー・エリアソン展へ。

いつからか、美術館では写真撮影がかなり許されるようになりました。
美術館だけでなく、あらゆるイベントで撮影okは多くなり、あからさまに「是非、SNSでシェアしてください」なんていわれることもあります。
口コミの威力が認知されたのでしょうか。
確かに、コストはかからないのに、広告力は絶大というのがSNSの側面のひとつです。
でも、ときおりそれを利用しようとしてたたかれる。なんて、場面にも出くわします。
十数年前には考えられなかった現象ですが、この先また、こんなことが?なんていうことも多々おこるのでしょう。
そういうことにはぼんやり傍観をきめこんでいますが。

美術館は予想よりもずっと混んでいました。
また自粛要請がきたら、確実にメンタルやられるから、政府が二の足踏んでる間に出掛けよう!という心の声が聞こえてきそうです。

気のせいか、お洒落なひと率高し...。
そして気づいたのは、オラファー・エリアソンのキラキラした作品の前で、
記念撮影以上の熱意をもって、撮影しているひと多し。
モデルさんの撮影しているのかと、一瞬おもったほどです。

インスタ....ですよね。

そう、現代美術って、映えるんですね。インパクトありますから。
もう、高層パンケーキなんてあげてもだれも「いいね」してくれませんから。
え、なにそれ?かっこいい。のは美術館。

そういえば、某新聞での企画で、作品とアイドルを撮る「美術館女子」というのがあって、美術や、フェミニズム、各方面からかなりたたかれてました。それは、たたかれるでしょう。って思いましたが、実際に美術館でインスタ用の撮影を熱心にしている女の子たち(きめつけ...)をみていて、それはそれで悪くない雰囲気だな。と、思いました。人間もまた自然の一部ですから、なじむんです。いい空間には。
エリアソンの考察や実験やコンセプトはおいてけぼりですが、
表層を滑降していくことでなにかひとつは拾うものもあるかもしれません。
彼らは観る意外の方法で、作品と交流をしている。わたしなんかよりずっと熱く。

でも、鶴岡政男の「重い手」の前でかっこよくポージングできる女の子ってどれだけいるでしょうか...。
それができるパワーがあるかどうか。
美術はやっぱり、かっこいいだけのものではないですね。パワーのぶつかり合い。
がぶりよつをしてこそ味わえると思います。

で、わたくしも草間彌生作品と撮ってみました。
小市民感があふれてます。まだまだです。




常設展より草間彌生「ドレッシングルーム」

2020年7月22日水曜日

美しい名前

仕事場には、資料が散乱しているのですが、たっくさんの資料があっても、実際の作品のなかにその影響が現れるのは、料理におけるコショウほどの分量。
でも、コショウやら、スパイス大事です。

山水画について確認したかったので、雪舟展の図録をひっぱりだしてみました。
神保町の古本屋で500円で買ったもの。
丁度雪舟に魅了されていた時で、まるでふっと本棚に現れたみたいでした。

東博でやっていた雪舟展は行ってないのです。 そのころ、あんまり興味がなかったので。恐れ多いことですが、雪舟は なんだかまとまりすぎていて、つまらないなあ。と思っていたのです。

けれど、ある本がきっかけで、雪舟を観るようになり、 山水長巻、天橋立図にあらためて魅了されました。
とくに天橋立図は、いわゆるスケッチなので、なんというのか生々しさというか、風景、自然に対する想いがそのまま画面にあふれていると感じます。
そういう感情を詩にできるひと、 絵にできるひと、それをうけとることができるひと。

雪舟の絵には慈愛のようなものがあります。

それは、周文や夏珪などの山水画のマエストロと比べるとわかります。
技術の高さとともにその崇高さが目立つそれらにくらべて、
雪舟は、よりもの静かです。
その静けさが、絵を見ているものの心の静けさへ呼応し、引き起こされます。
静けさが引き起こされるという言い方はおかしいかもしれませんが...。
本当にそういう感じです。心のなかの一番静かな場所を探り当てられてしまうというような。

だから心地いいのかもしれません。

なにより、名前が美しい。
雪の舟
とは。







2020年7月8日水曜日

Dead End in Tokyo

東京を歌った歌は結構ありますが。
最近聴いているのは、これです。
MAN WITH A MISSION日本のロックバンド、
なぜか、みんな狼のかぶりものをしています。
歌は正当派ロックですが、どことなくコミカルな面をもつバンド。
東京はいつも歌のなかで、少し哀しい場所であることが多いです。
多種多様な顔がこちらを刺激してくる。
いつの若者にとっても、そういう場所なんですね。
MAN WITH A MISSION
Dead End in Tokyo
https://www.youtube.com/watch?v=JjIiK9VcIsA

都知事選にはがっかり...。
林文子を選びつづけている横浜市民にはなにもいえないんですけど。
いろいろなことを考えて、結局たどりつくのは「教育」だと思います。
選挙に行かないのも論外だけど、
教育に文化の土壌がないという問題があるかも。
どういう哲学を持って生きているかということがとても大事で、
それぞれが、自分の答えを導きだすには、文化的な知識と素養が必要で、
なにより考える力をつけないと、と思う。
いまの教育は、考える力を奪うようになっているので。


絵本のラフがようやく一段落して、
銅版画の作業に入っています。
絵にはいつも繊細さと大胆さが必要です。
いつまでたっても悩ましい。




2020年6月16日火曜日

絵本制作すすんでいます

4月から本格的に、絵本制作に入っています。今年の秋の刊行を目指しています。
まだ、版画作業に入れないのですが、ラフの段階で練りに練っていくのはとても大事です。なにせ、絵本を作るのははじめてのことで、さじ加減もわからないのです。が、ずっと憧れていた仕事でもあるので、悔いのないように取り組みたいです。
制作チームがとても素敵な方々なので、毎回、打合せが楽しみです。
辛口だけど暖かみのある面白い本になると思います。

コロナ生活のなかで、こんなにも、ひとはおとなしくなれるものなのだ。と、驚いています。でも、それは、従順さとは違うもので、いつでも、なにか大きな力が声なきものたちを押さえ込んでいないか、風は通して、みていなくてはいけないのだな、と思います。





2020年6月13日土曜日

数ヶ月ぶりの美術館『神田日勝』展へ

この数ヶ月で、多摩川を渡って東京へ出掛けたのはわずか二回でした。

その一回が、東京ステーションギャラリーで開催中の神田日勝展です。
なんとも印象的な描きかけの馬の絵を見た方も多いのではないでしょうか。

東京ステーションギャラリーが再開したのは、つい先日のこと。
まだ、入場制限や、チケット販売の方法が変わっているので、サイトを確認してからのお出かけをおすすめします。

明治以降のいわゆる「画家」のほとんどは、今と違って○○会に所属、もしくはそこで選ばれたり、賞をもらうことを目標としていた作家が多いのです。
「会」アレルギーの私ですが、神田日勝のような画家をみると、「会」の存在が、孤独な画家を励ますものであったのなら、それも悪くないなあと思いました。北海道で、酪農家として働きながら、身の回りのものをモチーフとして描いていた日勝。特に馬に向ける眼差しにはまっすぐで慈愛に満ちており、生き物の命への暖かな愛に溢れています。久しぶりに気持ちが安らぎ、じんわりと芯から暖かくなりました。
馬の眼がほんとうに美しいです。いまにも動き出しそうなのに、半分が板のなかに埋もれている。なんだか、絵画というものの魅力の全てがそこにあらわになっているようでした。











2020年6月2日火曜日

青い空には

青い鳥はときおり描くモチーフですが、タッチも印象もいつも違うものになります。
この数ヶ月、空に蓋をされてしまったような時間が過ぎていきましたが、ふと見ると、その空はいつもよりも澄んでいたので、鳥たちは喜んでいるようにも見えました。

そのなかの一羽が、地上の人間に気がつき、舞い降りてきて
「空は青いよ、遊ぼうよ。といっている。
そんなイメージで作った絵です。

この絵を仕上げてから 数日たったある日、鳥たちの声が響くあの空を、銀色の物体が引き裂くように通っていきました。
ブルーインパルスという航空自衛隊の飛行機の演舞でした。

そのニュースをみたとき、なんで?という違和感を覚えたのですが、
多くの人が励まされたというニュースをみて、さら驚きました。

なるほど、花火に元気をもらう。というようなものと似ているかもしれません。
ただ、私の母は、いまでも花火大会に行けないといいます。なぜなら、あの音と光に、子供のころに体験した、空襲のことを思い出してしまうのだそうです。

空を雄々しく飛ぶ銀色に輝く飛行隊を見て、戦争を思い出してしまったお年寄りも少なからずいたであろう。と思います。
もう少し、気の利いた励ましってなかったのだろうか。と、思うのでした。
実際にそれを見た医療関係者はごく一部なのでしょうし。

青いそらには鳥たちを。
人にも生き物たちにも、平穏な日常が続きますように。





2020年5月23日土曜日

やがて風を生むために、不安の河を確かなものが流れて行く

世界中が悪い魔法使いに魔法でもかけられたようになっていて、
この不思議な感覚を、もう言葉にできないようになってしまいました。

それでも、創作はつづくのです。
それだからこそかもしれませんが。想像の力を落としてはいけないのですね。

アトリエのまわりは、鬱蒼とした草に覆われ、あれから一年が経ったことを感じさせます。まだ何も発信できていないけれど、この空間は得難いものになっています。
鎌倉は、自然に囲まれているからいいのですね。虫もいっぱいです。

進行中の出版企画が、ようやく具体的に動き出しました。
このゼロからイチまでが、とても悩ましかった。
打ち合わせのために、編集者さんが、北鎌倉までいらしてくれました。
とても集中できて、有意義な時間がもてました。

この静かな戦いは、終わることはないですね。だとしたら、抱えてどう生きて行くのか。家族がいても、友人がいても、ひとは孤独というものから逃れられないのではないでしょうか。だからこそ、芸術の力が必要で、小さな物語や詩や音楽、映画などに、助けられています。



タゴールの詩がお守りのように感じます。

ーひとりで進めー
もし君の呼び声に誰も答えなくとも ひとりで進め
ひとりで進め ひとりで進め 
もし誰もが口を閉ざすのなら 
皆が顔を背けて 恐れるのなら
それでも君は心開いて 
本当の言葉を ひとりで語れ
もし君の呼び声に誰も答えなくとも ひとりで進め
もし皆が引き返すのなら 
もし君が険しい道を進むとき 
誰も振り返らないのなら
茨の道を 君は血にまみれた足で踏みしめて進め
もし君の呼び声に誰も答えなくとも ひとりで進め
もし光が差し込まないのなら 
嵐の夜に扉を閉ざすのなら
それでも君はひとり雷で 
あばら骨を燃やして 進み続けろ




映画『タゴール・ソングス』
のオフィシャルサイトより引用させていただきました。
http://tagore-songs.com/





2020年5月1日金曜日

web展覧会『水の図書館』五月一日〜五月十五日

参加している、web展覧会のご案内です。
『水の図書館』五月一日〜五月十五日@ギャラリーwatermark
本日より開催です。九人の版画作家による造本のweb展覧会です。
この写真に載っているのはほんの一部....web上には美しい作品が多数UPされていますので、ながめるだけでもわくわくします。
是非、ご高覧くださいませ。
わたしは、タゴールの『迷い鳥』から一節だけを活版印刷し、版画による挿画をほどこした豆本と、のばらの版画を表紙にしたノートを出品しています。
展示室はこちらからどうぞ☞https://watermarkart.base.shop/

こちらでは、本をひらく動画をごらんいただけます。

2020年4月20日月曜日

eの問題と切り刻まれた夜

外出自粛の日々が続いています。
基本的に、いままでとほぼ変わらないのですが、北鎌倉のアトリエまでの電車通勤が、いままでと違って、どこかさみしいような、特に夜の鎌倉が真っ暗で怖いくらいです。

タゴールの詩集『迷い鳥(stray birds)』から、一片の詩を組版してみました。
活字はセットで買っているのですが、どうしてもaやeなどの活字は足りなくなります。tも結構使いますね...。たったこれだけの文ですが、eが一つ足りず!
一カ所だけ大文字となってしまいました。でも、タイポグラフィの美しさがあるので、デザインにみえてしまうのです(ほんとでしょか?)。
eの問題には今後も悩まされそうです。

タゴールの「stray birds」は、洋書をもっていて、ときどきぱらりとめくって読んだります。難しい単語は多くはないのですが、どうしても意味がよくわからないものなどあります。

今回レタープレスしたのは、この詩(散文なのでしょうか)です。
へたくそなんですが、訳してみました。なんか、へんですが...遊びなのでご容赦ください。


Sorrow is hushed into peace in my heart like the evening among the silent trees.

―哀しみは鎮まり、
静かな森にまぎれた夜のように
わたしのこころは安らいでいる。



それで、英語が得意ではない私は最初、
hushをhash(刻む)と勘違いし、その流れでpeaceをpiece(小片)と見間違え、
文法的にはおかしいのだけど、

―哀しみはこころの中で
木立の間の夜の破片のように
切り刻まれる。


??と、まったく違った景色を想像しました。
また、このばあい、あいまいなamong は使われないかもしれません。
もっとはっきりしたものを示す単語...なんだろう。

ただ、たくさんの木の枝が夜を切り刻んでいるようにみえる様子が、
こころのなかで哀しみというものを刻んでいく様子と重なるようで、
ちょっと面白いと思ってしまいました。







2020年4月13日月曜日

静かな日々

静かな日々が嫌いではないけれど、さすがにちょっと、大変な気がしてきました。
なにかに集中する気持ちって、遊びがあって初めて生まれるものなんですね。

横浜のベイエリアを散歩しても、普段の1%もひとがいないのです。
時間がゆっくりながれていくような、
なんだか、それは心地よくもあります。
大変なのか、心地いいのか、どっちなんだ...?

錯覚なのかもしれないけど、時間がある。ということで、牡蠣のオイル漬けをつくってみました。一週間待って、絶品おつまみができた! もう飲むよりほかない。

ひきつづき、日々はつづく。太りそう。





2020年4月3日金曜日

ストイックでスラップスティックな日々

 なんだか、あっという間に世の中の様相が変わっていった。どこか、特別な場所の特別な出来事でなくて、ここまで世界中のひとが当事者だったことって、いままであっただろうか。連帯感は...ないけど。そのうち生まれるかもしれない。世界中のひとが、ひとつの映画館でウィルスと戦う映画を見たあとみたいに。みんなが喜びあって、スタンディングオベーション 、ハグハグ。幕は降りる。しかし!全てが終わったかと安堵したその時....!ああ、違う、そういうのではなく...。とにかく、うつさないうつらない。しかない。
 
 日常が微妙にゆがんでいくさまは、まるでSF小説のようでもある。
とりわけ、ふざけた政府によるつらめの喜劇というのは、カート・ヴォネガットの小説世界じゃないですか(内容うろおぼえ。たしか、狂った双子のひとりが大統領になるんだった。再読したくなった)。と、愕然としている(そういえばA宰相は、吉本新喜劇に出ておふざけもなさってた)。わたしはこの数日で「愕然」という言葉を少なくとも3回は打ったと思う。ここまでひどいのは、もちろん小説にも漫画にもない。






 京都ギャラリー恵風での展示が終わりました。アートゾーン神楽岡のほうは4月5日まで。装丁の写真は、アートゾーン神楽岡に展示中の意匠替えした本、正津勉『ひとはなぜ山を詠うのか』。山岳詩人たちを中心に、山を詠うこころにせまっている。宮沢賢治は、人々のために経文を山に埋めてあるいたのだとか。人と祈りはいまより近かったのだろうか。

 実は、というかこの数ヶ月、沈みがちで、うつ気味とでもいうのか、こころがばらけたようになってしまっていて、作業がとても辛かった。そのなかで、なんとか京都の展示ができてよかった。こころがまずいかんじのなか、よくがんばったとおもう。やっぱりここがいいのだに。きっともう大丈夫。





 はなのスケッチは、鎌倉のアトリエの前に咲いていた花。はなだいこん、とか、むらさきはなな、とか、いろいろな名前があるみたい。ウィリアム・モリスみたいに、鎌倉の野草花を図案化してみたい。とちょっと思っている。そういうことを考えないと、この非日常をすり抜けるのは難しいみたい。気難しすぎてもつらいし、ふざけすぎてもいけない。すり抜けた先には一面の花模様...いいかも。

 予定していたことが、なかなかすすまないのは、時間よりも気持ちの問題にちがいない。ウイルスに気持ちまでやられてしまうなんて、なんだかしゃくである。
毎日のように、オッフェンバッハの「ジャクリーヌの涙」をきいている。
オッフェンバッハをいいとおもったのって、はじめて。






ギャラリー恵風 展示風景


2020年3月3日火曜日

「京都空想装幀室」展のお知らせ

【京都での展示のお知らせ】


「京都空想装幀室」展
版画家たちによるオリジナル装丁に意匠替えした本の展覧会です。
3月21日(土)-4月5日(日)アートゾーン神楽岡
3月24日(火)-29日(日)ギャラリー恵風

造本と版画がテーマの展示です。
 わたしは、あまり版画界の真ん中の道を歩いて来なかった(来られなかった)はみだしものなのですが、今回は、憧れの版画家たちに混ぜていただいて、とても緊張しています。
 筆塚さんの案内状の写真がとても繊細で綺麗です。
三月後半にはコロナくんが落ち着いていることを願いつつ、京都お近くのかたはどうぞよろしくお願いします。
なお、お茶会の日時内容については変更等の可能性がありますので、なにかあれば、またご案内します。








                                                                                                                         photo:筆塚稔尚

ときどきディキンソン


ときどき、とても立ち直れる気がしないことが起きてしまうこともあるけれど、
そういうときは、 美しくて強い言葉を”唱える”ようにしている。
いつしか、心は浄化される。

エミリ・ディキンソンはそんなときにはとてもいい。
遊びで訳してみました(かなりアレンジもあり、ひろいこころでよんでください)。
写真は、アトリエの近くでいままさに開かんとしているハクモクレンです。


 “Hope” is the thing with feathers
 That perches in the soul - 
 And sings the tune without the words - 
 And never stops - at all -

 And sweetest - in the Gale - is heard - 
 And sore must be the storm - 
 That could abash the little Bird 
 That kept so many warm -

 I’ve heard it in the chillest land - 
 And on the strangest Sea - 
 Yet - never - in Extremity, 
 It asked a crumb - of me.


希望は 羽をつけている
この胸のとまり木で
なにも語らず
ただひたすらに歌いつづける

その歌声は
風が強いほどに
美しく
わたしを幾度もその温もりで包んでくれた
大変な嵐でもこないかぎり
小さな小鳥はへこたれやしない

凍えるほどの荒野でも聴いたし
遠くの見知らぬ海の上でも聴こえていた

なのに
どんなに苦しくても
一度だって
あの小鳥は
わたしにパン屑をねだったり
しなかった







2020年2月26日水曜日

眠りシャッター

 ここのところ、刺激的な、よい展覧会の鑑賞が続いている。
 ひとつは、豊田市美術館の岡崎乾二郎「視覚のカイソウ」展、もうひとつは府中美術館の青木野枝「霧と鉄と山と」展。
 詩的で、けれど叙情に流されない。どちらも、その強さとしなやかさが、パワーをくれるような展覧会だった。

 岡崎氏の作品を鑑賞していて、ふと、まとまった創作イメージが浮かんだ。展覧会を観に行くと、そんなふうに、創作欲をかりたてられ、方向性を示唆されることがある。

 過去の記憶が今の眠りと通じていて、まぶたを閉じるごとに、シャッターが降りて、過去(新たなものとして)を写し取るという創作メソッドと、ただ何も考えずに浮かんでくる心象抽象風景を「山」と称して描き続けている創作メソッドが、つながる予感が。

 注意すべきは、いい加減なデフォルメをしないこと。形を慎重に描くことで、絵画とわたしとの間の、信頼関係を築き対話すること。ある程度描けたら、ベンヤミンを読んでみること。確かめるべきことがあるような気がする。クレーの演繹法についても 。

 眠りとは、思えば不思議な行為である。身体の自然な欲求でありながら、「社会」のなかで、不謹慎な行為とみなされることもあるし、かといって、たとえば排泄行為などほどのタブーではない。許容も緩やかだ。眠りは、身体と社会活動の間で曖昧に揺らいでいるものなのかもしれない。よって、眠りはどこにも属さず自由である。デモで「われらに自由を!」と叫ぶひとがいたら、それは生活のなかにしっかりあるのですよ。と言わねばならない。ただ、それは、わたし自身によるわたし自身におよぼす行為であってもわたしの思い通りにはならない。眠りはわたしの外側にある。

まぶたが降りるという、社会的活動を一時的に遮断する時に、現れる「わたし」の記憶について考えることは、いまお気に入り の、遊び道具のようにしばらくそばに置いておくかもしれない。何か見えればいいけど、たいてい身構えると捕まらない。







drawing -
inner-mountain2020
water color