2017年2月22日水曜日

ジュリエットバード(創作掌編)

「ジュリエット バード」

 夜明けを告げる鳥の声に、男はおびえているように見えた。
「あれは夜に啼くナイチンゲール。ひばりではないわ」
 女が言った。そのとき、小さな嘘から、一羽の小鳥が闇に生まれ落ちた。
 それは、ひばりでもなく、むろんナイチンゲールでもない。世界中の鳥類図鑑をひもといても、どこにも載っていない鳥だった。名前をもたないその鳥は、飛び立つ運命をそのしなやかな羽とともに背負うていた。羽をしまいこみとどまれば、それはたちどころに退化し、その体まで滅ぼしてしまう。鳥はうまれたての羽を伸ばしてみた。それは、闇の中で一瞬だけ煌めいた。鳥は、自身が産み落とされた光のない世界を受け入れ、どこまでもつづく闇の中へ飛び立った。
 
 はじめて飛ぶ世界は、しんとして、風の音さえしなかった。

 この鳥には名前がないばかりでなく、色も形もなかった。嘘から生まれた鳥のなかには確かめることのできるものなど、ひとつもなかったのだ。
 
 鳥はひたすらに飛んだ。どれくらい飛んだだろうか。いつしか森に迷いこみ、そこではじめて羽根を休めることにした。みずうみをみつけ降り立ち、水を飲んだ。水面に映っていたのは、青く輝く羽根をもつ一羽の美しい鳥の姿だった。それは、世界中のひとが、探し求めている幸福の象徴のようだった。
 水を飲み続けていると、たくさんのひとの声が聞こえてきた。
 ―幸福とはなんなのでしょうか。
 ―どうやったら手に入るのでしょうか。
 ―一度でもいい。幸福というものを味わってみたい。
 ―幸福になれるのなら、どんなことだってする。
よく見れば水面には人々の姿が浮かびあがり、誰もが青白い手を伸ばして自分を捕まえようとしているように感じた。
 鳥は、おそろしくなり、ふたたび闇のなかへと飛びたった。いつしかまた、その色も形も失なわれていった。

 しばらく行くと、こんどは街にたどりついた。たくさんの建物や、人々がいた。まぶしいとめまいを感じ、誰かの足下に降り立った。そのひとはまったくそこから動かなかった。鳥はそこを居心地がよいと感じた。ほどなくして、それが王子と呼ばれる彫像であることを知った。王子は鳥に話しかけてきた。
「つばめよ。ごらん。街のひとびとは幸福そうに見えるだろう?けれども、もっとよく見てごらん、貧しいがために苦しんでいるものたちがたくさんいる」
 鳥はいつのまにか、白と黒の愛らしいつばめの姿になっていた。
 
「だからお願いだ、つばめ、わたしの体から宝石をえぐり出して、貧しい人々へ届けてあげてくれないか」
 美しい王子に惹かれ、いわれるとおりにせっせと働いた。ただ、誰かを幸福にしようとするたびに王子が傷ついていくのがとても哀しかった。あるとき鳥は、宝石のそのきらめく赤や緑のなかに、いつかのみずうみで、暗い水底から自分をつかまえようとした沢山の青白い手を見たような気がした。

 王子の願いとはいえ、自分にはもう宝石を運ぶことはできない、と思った。
 
 鳥はふたたび闇に飛び立ち、色と形を失った。
こんどの闇はどこまでも続いた。
いけどもいけどもなにも現れなかった。ようやく、遠くに光を見いだし、鳥は全力ではばたいた。光がどんどん近づいて、もうすこしだとおもった時、そのはばたきは止まってしまった。

 いつしかやわらかな手の中にいた。手の主は暖かみのある声でささやいた。
 鳥は瞳を閉じたまま、その言葉を幸福な心地で聞いていた。
 手の主は詩人だった。
 詩人は鳥に名前をつけた。鳥はその命の最後のときに、闇に向けて我が名をつぶやいた。









 



2017年2月21日火曜日

マイケル メランコリア

 さて、「ながら映画」もさすがにあまり有益には思えなくなり、ひとまず、やめることにします。やっぱりラジオかな....。アトリエひとり。のお供にはなかなか苦労します。
 さて、ながら観の最後には『This is IT』マイケルツアーのリハのドキュメンタリーですが、なかなかよかった。まあ、マイケルって歌と踊りがうまいのなんの(いまさら世界のスーパースターになにを)。
 そして、なんだか、映画みて、youtubeでいくつかPVみて。
 切なくなりました。
 マイケルって、ほんとに切ない存在です。
 存在の耐えられないマイケル....
  それこそ、いまさらなのでしょうが。
 幼児虐待、人種差別...等々、実はマイケルの歌にはよくとりあげられているのです。
 だから、どんなにポップでも、どこか憂鬱な影を感じてしまうのかもしれません。





2017年2月19日日曜日

装飾からうまれたかもしれない文字について

 コロボックルの佐藤さとるさんが亡くなって、うさこちゃんのディックブルーナさんが亡くなった。

 なんだか小さい頃に心をあたためてもらった方々が立て続けに亡くなってしまった。
 わたしは、本気でコロボックルがいるとおもっていた子供のひとり。というより、お願いだからいてほしい。と祈るような気持ちだったのかも。子供にもいろいろ辛いことがあるもの。小さいコロボックル達は、子供たちのこころに寄り添うなにかだったんだと思う。

 先日、ふと「装飾」的なものについてある考えが浮かんだ。
 文字というのは、意味より先に装飾から生まれたのではないか。という考え。
 けれど、調べてみると、文字は記録や複数への伝達、とくに、国の統治を目的として発明されたとするのが、自然であるようだ。
 では、もしかしたら、文字には大きく二種類あって、統治のための文字と、統治するための社会システム外でのコミュニケーションを可能にするための文字があるのかもしれない。

 私たちが現在使っているのは統治のための文字で、もうひとつの文字は装飾そのものもあるいはそこからうまれ、歌や民族内の伝承のためとして、生活のなかにそっと埋め込まれている文字(的なもの)
 たとえば、伝承すべき物語が織り込まれているタペストリーとか、文字をもたないアイヌ民族の衣服の装飾パターンとか(これは魔除けであるらしいけれど)。

 もちろん、生まれた理由に関係なく、現在つかわれている文字は人間によってことばの自由な表現のための役割をあたえられている。けれど、さらに自由なコミュニケーション力をもつみえない文字が生活に溶け込み、地模様としていまも存在しているのだとしたら、面白いと思う。

 そこで、ふと、アーツアンドクラフツ運動を提唱したウィリアム・モリスのことが気になった。案の定...というべきか、モリスは、ひどく社会主義に傾倒し、社会運動も活発におこなっていたらしい。華やかな装飾のなかには、近代の資本システムへの問いかけが盛り込まれ、はっきりとした形をもった文字のかわりに、愛らしい小鳥や草花とともにその輪郭こそ曖昧にしたまま、ひとの生活に流布されていったのだろうか。



2017年2月15日水曜日

このごろやけにみている

最近、単純作業が続くときには、ネット配信の映画を流しっぱなしにしている。

  いけないと思いつつも....映画を観ようと思うと、ほぼ2時間使ってしまうし、そう思っただけで、先延ばしにしてしまうので、とにかく流して、集中して観たくなったらみる。というようにしている。ただし、観なくても内容がわかるように邦画ばかり。集中してみたいような映画ははずして選んでいる。
 
 で、みたのは『百円の恋』『裸のガンを持つ男』『ビリギャル』『私の男』『超高速参勤交代』『GO』『羅生門』『変態仮面』『ヒミズ』『恋の罪』『舟を編む』『This is IT』というのがいまのところ。どうでもいい映画....というなかれ。どんなものにも、見所はあるのだ。このなかで、作業を中断して観ようと思ったのは、『百円の恋』と『GO』、あとは『羅生門』は、さすがにながら見はできなかった。

 『GO』は脚本が宮藤官九郎で、善し悪しの振れ幅のある作家だけど、この『GO』はすごくよかった。主演の窪塚洋介が、先日みた『沈黙』でも、ほぼかわらない容貌なので、なんだか不思議な感じ。俳優というより、キャラクターなのかもしれない。
 『私の男』は、なんとも後味が悪い。原作を読んでいないからわからないけれど、性の問題は、文学のなかでは少なからず美化されて受け手の感覚にはいってくるが、それが視覚化されると、どんなに役者がすばらしくても、あまりきれいなものとして受け入れられないのだろうか。理解しようとしても嫌悪感が先にたってしまう。

 仕事は、なかなか長いトンネルを抜けられないが、いっぽずつ、進めている。予定していた時間の三倍はかかりそう。時間をかけてもいいものをつくるつもり。




試作の試刷り。装飾的な絵をかきたくて。