「ジュリエット バード」
夜明けを告げる鳥の声に、男はおびえているように見えた。
「あれは夜に啼くナイチンゲール。ひばりではないわ」
女が言った。そのとき、小さな嘘から、一羽の小鳥が闇に生まれ落ちた。
それは、ひばりでもなく、むろんナイチンゲールでもない。世界中の鳥類図鑑をひもといても、どこにも載っていない鳥だった。名前をもたないその鳥は、飛び立つ運命をそのしなやかな羽とともに背負うていた。羽をしまいこみとどまれば、それはたちどころに退化し、その体まで滅ぼしてしまう。鳥はうまれたての羽を伸ばしてみた。それは、闇の中で一瞬だけ煌めいた。鳥は、自身が産み落とされた光のない世界を受け入れ、どこまでもつづく闇の中へ飛び立った。
はじめて飛ぶ世界は、しんとして、風の音さえしなかった。
この鳥には名前がないばかりでなく、色も形もなかった。嘘から生まれた鳥のなかには確かめることのできるものなど、ひとつもなかったのだ。
鳥はひたすらに飛んだ。どれくらい飛んだだろうか。いつしか森に迷いこみ、そこではじめて羽根を休めることにした。みずうみをみつけ降り立ち、水を飲んだ。水面に映っていたのは、青く輝く羽根をもつ一羽の美しい鳥の姿だった。それは、世界中のひとが、探し求めている幸福の象徴のようだった。
水を飲み続けていると、たくさんのひとの声が聞こえてきた。
―幸福とはなんなのでしょうか。
―どうやったら手に入るのでしょうか。
―一度でもいい。幸福というものを味わってみたい。
―幸福になれるのなら、どんなことだってする。
よく見れば水面には人々の姿が浮かびあがり、誰もが青白い手を伸ばして自分を捕まえようとしているように感じた。
鳥は、おそろしくなり、ふたたび闇のなかへと飛びたった。いつしかまた、その色も形も失なわれていった。
しばらく行くと、こんどは街にたどりついた。たくさんの建物や、人々がいた。まぶしいとめまいを感じ、誰かの足下に降り立った。そのひとはまったくそこから動かなかった。鳥はそこを居心地がよいと感じた。ほどなくして、それが王子と呼ばれる彫像であることを知った。王子は鳥に話しかけてきた。
「つばめよ。ごらん。街のひとびとは幸福そうに見えるだろう?けれども、もっとよく見てごらん、貧しいがために苦しんでいるものたちがたくさんいる」
鳥はいつのまにか、白と黒の愛らしいつばめの姿になっていた。
「だからお願いだ、つばめ、わたしの体から宝石をえぐり出して、貧しい人々へ届けてあげてくれないか」
美しい王子に惹かれ、いわれるとおりにせっせと働いた。ただ、誰かを幸福にしようとするたびに王子が傷ついていくのがとても哀しかった。あるとき鳥は、宝石のそのきらめく赤や緑のなかに、いつかのみずうみで、暗い水底から自分をつかまえようとした沢山の青白い手を見たような気がした。
王子の願いとはいえ、自分にはもう宝石を運ぶことはできない、と思った。
鳥はふたたび闇に飛び立ち、色と形を失った。
こんどの闇はどこまでも続いた。
いけどもいけどもなにも現れなかった。ようやく、遠くに光を見いだし、鳥は全力ではばたいた。光がどんどん近づいて、もうすこしだとおもった時、そのはばたきは止まってしまった。
いつしかやわらかな手の中にいた。手の主は暖かみのある声でささやいた。
鳥は瞳を閉じたまま、その言葉を幸福な心地で聞いていた。
手の主は詩人だった。
詩人は鳥に名前をつけた。鳥はその命の最後のときに、闇に向けて我が名をつぶやいた。