2015年3月31日火曜日

てんごく

養生のため実家へ。
海が近いしご飯は出てくるし、
実家は天国じゃ。

死んでキラキラした雲の上にのぼっていったさきが実家だった…りしたらちょっとやだけど。

移動中、有隣堂で冊子をget.
読み応えありです。
だいぶ風邪毒も抜けてきたな。




2015年3月30日月曜日

しつこいはるのかぜ

じゃあ、夏風邪はしつこくないのか?真冬の風邪は?
という意見もあるでしょうが、もやっとしつこいとえば、春という感じで。
季節を楽しむ気力が激減しています。いっそ、常夏か極寒の地にでも移住したい。
もやっとしたものが入る隙のない。

なんか今年は変な年かもしれません。
いいことあるかとおもへば、
それを相殺するかのように心身疲れることもまた多いような。
明日また実家に行って、飯などお世話になりに。
扁桃腺がまあだ腫れている。

頭痛に喘ぎながら、仕事を少しすすめました。
読書会レポートなどまで手が回らず...汗。

なのに今週末、と来週もイベント多し。
それを餌にこの数ヶ月がんばってきたのだ。
でも、それが過ぎたら、なんか餌がなくなって無気力に陥りそうだ。
怖いなあ。先取り五月病か。

しかし読書をしてみれば、本のなかとて決して穏やかではなく。
いやだからこそともいえましょうが。
とんでもない冷酷な主人公がいたり。

現実には、元気に酒を飲める日がまた来ますように。
と、扁桃腺をなだめるのみ。

2015年3月29日日曜日

たまにはゆっくり

なかなかスッキリ治らず、今日も一日、寝てました。暇なので読書。
これは面白いです。
『自由の牢獄』ミヒャエル・エンデ







2015年3月28日土曜日

つよいくすり

今日は予定すべてキャンセル。
桜もみずに寝てました。

うーん、鎌倉は
二ヶ月前から楽しみにしていたのになあ。

2015年3月27日金曜日

けほけほ

まだ、風邪のなか。
明日は鎌倉で音楽塾。クロイツェルソナタを聴く会。すごく楽しみにしていたのだから......今夜中に治さなくては。明日は暖かい一日になりそう。
元気だったら、帰りにヒグラシ文庫に寄ろうかな。今日のドローイングは、なし。

2015年3月26日木曜日

こおり

喉が痛くなり始め、無性にこおりが食べたい。
アンナ・カヴァンの『氷』っていう本もよみはじめた。
氷食症っていうを無性に食べたくなる病気があるらしい。
わたしのはただの風邪だけど。

お友達にもらった台湾の顔パックがとっても気持ちよかった。
どこかに売ってないかなあ。

我的美麗日記ていうの、普通にあった....ほうほう。






2015年3月25日水曜日

夜の木の小鳥たち #1

墨の黒は光ってしまう。
黒はテクスチャーの特徴がよく出やすい。
なんといっても、銅版画インクの黒がやっぱりうつくしい。
というのは、ひいき目かな。

memo:あまつぶはのぼっていくように描くのではなくて、宙にういて癒着してしまったように描くこと。







breathing

少し息を吹き返してきたかんじ。

絵のほうも、ほんとに一筆ずつ進んで、積もっていく。
という以外の方法はなしとあらためて感じつつ。
今日も進めていく。アトリエは終始無音。
また、ぼちぼちラジオでも聞こうかな。
あまつぶの絵、たまったら、綴じて製本する予定。
まるで、雨水を溜めるみたいな作業。

ところで、素敵なニュースが。
雑誌『MONKEY』でお仕事させていただいたり、読書会でご一緒したり、など、お世話になっている某編集長、スイッチパブリッシングの新井敏記さんが伊丹十三賞に。伊丹十三の賞を新井さんが。というところが、とっても.......。ますます、こころ揺さぶる雑誌をつくりつづけてほしいです。

といいつつ、やっぱり夕方になると、ああ、今日もこれしかすすまなかった。
って思ってしまうなあ。



2015年3月24日火曜日

ロマンチックって

ロマンチシズム、ロマン派。って、定義を正確に細かく説明できるひとは案外少ないかもしれない。わたしも実は、美術史の本を読んでもいまひとつ飲み込めない部分。たとえば、ターナーもゴヤもロマン派だ、と言われても、へっ?全然違うけど。ってなってしまう。時代背景とテーマ性によって分けられているなら、そうかもしれないけど。何々派って、印象派とかキュビズムみたいに手法で分けるべきものであって、時代背景でざくっと分けてしまうのはどうかなあと思う。イギリスに行ったことがないんだけど、ターナーのこの絵はみてみたい。なにか、ざわざわと胸に泡立ちを覚える。

 最近、春のせいか、重たい雲がずっとあたまのなかで浮いている感じ。酸素も少なく息苦しい。じきに慣れるでしょう。とたかをくくっていたけど、一向によくならない。でも、そういう状況でも、絵だけは描ける。反面、生活上のほかのことがほとんどだめになっていく。こんな人間、生きてていいのでしょうかね。

 ゲラ読みすすまず。
 それとはまた別に、近々、某出版社の公式サイトの一部にお邪魔して、先日の読書会のレポートを挿絵とともにupする予定です。それも、まったくすすんでおらず!

楽しいはずなのに。春に取り残されているみたい。
 





ターナー1842年「平和ー水葬」



あまつぶあつまれ

ひさびさに、夜のドローイング。夜の夜中に、あまつぶがあつまっているよ。






memo:心象印象派

2015年3月23日月曜日

ものがたりとひと

つまづいたときには『草枕』を読むようにしている。
そうすると、なにかがすうっと抜けていく。
物語の筋を追っているわけではない。
物語は、わたしに入って、なにかをからめとって、抜けていく。

それが、どういう作用かわからない。
でも、わたしにとって、物語はそういうもので、
具体的な感情を呼びさますものではなく、
無為に作用するもの。

では、物語にとって筋は必要ないかといえば、そうではない。
筋があることで、それが物語として存在していることは、
なにより大切だったりする。

2015年3月22日日曜日

たくさんの詩人とジュリエット画伯の夜

 昨日は、岩本町のライブハウスへ。Eテレ『東北発☆未来塾』の公開収録へお客さんとしてかつじチームの面々と見学に。詩人ドリアン助川氏の指導のもと奥の細道をバスツアーをしながら、詩の創作に挑んだ6人の学生さんたち。その作品は本当に素敵だった。なんだか、みんな初々しくてかわいい。こころにとどいて輝くような言葉のいくつかを持ち帰る。
放映は、教育TVで5月の毎週土曜日23:00〜23:20だそう。とてもおもしろいし、感動的なので、是非ご覧下さいませ。

 収録後、女性だらけのかつじチーム一行は詩人ぱくさんの希望で有楽町の「盧端」という店へ。三階を案内されて、のぼっていくと、途中二階では、詩人の集団が稲葉真弓さんの追悼の会の真っ最中。白石かずこさんなど濃いい面々がおられた。
 詩にまみれる運命にある日のようだ。
 三階には、大好きな片山健の絵がたくさん飾られていて写真をとりまくった。店主の井上さんがそのへんにころがっていた、この絵を持って「これね、ジュリエット・ビノシュが僕のことを描いてくれたの」だって。よく見るとサインが.......。ありえん逸話に一同唖然。
ジュリエット・ビノシュが有楽町のガード下で、似顔絵描いていたなんて。
ちなみにジュリエットをいいなとおもった映画は「存在の絶えられない軽さ」だったかな。
列車からカメラを捨てるシーンがかっこよかった。

ところで、Hさんから「仁左衛門の『菅原伝授手習鑑』が、今週で終わりだからぜったいみて〜〜」と言われた。うーむ。行ってみようかな歌舞伎座。何年ぶりだろ。








2015年3月21日土曜日

わたしの物語には

わたしの物語には肉球がついているので、音もなくあらわれて、音もなくたちさるのです。

2015年3月20日金曜日

はげしいはな

この季節、道にたくさんの椿がおちているのを目にする。ドローイングしてみた。こういう感じの、ドライポイントもいいかも。椿はどことなく、激しさのある花だなあ。椿の花が落ちる理由ってどこにあるんだろう。種に成るまえなのに。
 事務仕事、片付きません。うつうつ。
 いろいろなことがアレで......ダイレクトにモノや事象と向き合って交信するほうがよっぽどおもしろいのになあ。と、あらためて思ったり。
しかし最近、アメリカからのアクセスが増えているのは何故?

memo:ストロークを鉄橋の柱みたいにひいてみる。規則的に上と下に、ときおり不規則に、やむなく寄せたりもして、力をどうにか均衡に保とうとするみたいに。



手のひら指のさきから

とある詩人のお宅にお呼ばれしてきました。
編集者が四人、舞踏家、翻訳家、デザイナー、絵描き.......そして詩人、全員、女子!
詩人が集めている、女の手仕事をたっぷりと堪能しました。おいしいごはんやお菓子でお腹いっぱい。美しい色のなかにずっといたので、なんだか夢みごこち。地元の坂をのぼりながら、ああ、明日起きたら、やることいっぱいあるなあ。と、現実に引き戻されていってブルーになったけど、とりあえず今日一日は鮮やかな色の中で身を潜めていよう。素晴らしい時間をありがとうございました。これは、韓国の指ぬき。かわいらしい。奥にひとの手が映り込んでいて、ああ、と。
手のひら指のさきが生み出したものたちについて......
コンセプトもかけひきもない色だけの世界について思いをはせながらつぶやいてみる。

自分の真中はいつも空洞にしておかないと。
創造って、よくもわるくもそういう感じ。
そのことが、ときおりふいに、重くのしかかる。
ひとと楽しく過ごしたあとの時間などに。



2015年3月18日水曜日

水をいっぱいくれ


毎日いろいろありますが、今日も無事に過ごせました。
少しずつ理想のくまにちかづいているような......。





2015年3月17日火曜日

修羅の通路

 今日は、はじめてお仕事をする出版社さんとの打ち合わせだった。岩波書店でキャリアを積んでこられた方たちが三年前に立ち上げたそうで、お話うかがっていても安心感があった。なんだか、一過性のものではなくしばらくおつきあいが続きそうな雰囲気。わたしの作品をよく見てくださっていて、熱のようなものを感じ、とても恐縮した。著者のバックグラウンドとして、永井均とかヴィトゲンシュタインて名前が出てきた。以前、光村の教科書の仕事をしたときには、今道友信氏のページを担当させていただいたのだけど、このページは評判がよくて、改編のときにもずっと残されている。あまり理解してはなくとも、どういうわけか哲学の世界との相性はいいのかな。
 このところ、ふいに「こっちだよ」と、開けてくるような出来事が相次いでいる。こういう時期の仕事には丁寧に対応していかないと。そうじゃないときは、丁寧じゃなくていいというわけじゃないけど、なんとなく、曲がり角にきている感じがしてしかたがない。他にも準備していることがうまく展開してくれたらと思う。

 帰り道、あることを思い出していた。去年を通して......なぜか、すごくある身体的特徴のある人々と遭遇することが多かったことを。あれは、なんのサインなんだろうってずっと思っていた。もしかすると、あのときわたしは、修羅の通路を通っていたんじゃないのかな。そして、自分でも知らないうちに、いままでと違う場に向かっているのかもしれない。まあとにかく、すべてがいつも思い込みなんだけど。
それ以外、確かなものって、なにがあるというのかわからないし。
思い込んでおこう。素直に。





2015年3月16日月曜日

HOPE

今日の夜は、お茶の水まで、震災後の釜石、大槌を定点観測している「復興カメラ」の展示で、「かつじ展」@釜石でお世話になったNPOリアスさんの川原康信さんのトークを聞きに出かけた。

 先日も書いた通り、わたしは、震災との向き合い方として、自分は発信者である前に、まずは受信者としてどうあるべきかを、今後は考えていくことにしたのだ。受信者に徹することは、実は、発信していくよりも、忍耐と集中力が必要だと思う。だからこそ、それを自分に課してみたいと、表現にかかわった結果として思うようになった。

 この想いは、今回、川原さんのお話をうかがって(釜石でお会いしているのに、震災のことをお話したことがなかった。というよりも、地元ではまだ、話しにくいことがたくさんあるらしい)よりいっそう強くした。震災は、過去のもののように時間の彼方に行こうとしているものではなくて、いまなお、現在進行形として、現地の人々の問題を生み続けている。もちろん、元気だし、笑うことも忘れていない。でも、いまだ言えずに秘めていることも、沢山あるようだった。川原さんは、今後、ひとにネガティブなはなしをしたほうがいいのか、前向きな明るい話をしていけばいいのか、わからないという。そんなことには、気を使わないで、思いの丈を、世間にぶつけてみてくれてもいいのに。と、思う。それにしても、話したところで、かえらないものはかえらない。という、虚しさもおそらく、抱え続けているのだろうか。復興に向かうさなかにも、こころの問題はずっと残って、ますます大きくなっているらしい。ただ、川原さんは、こうして話すことで、ご自身のこころが少しすっきりしたことに最初おどろいた。と、言っていた。当事者以外の人間が、よき受信者となることの必要性がここにあるような気がした。

 これをきっかけに、受信アンテナをよりとがらせていこうと思う。じゃあ、どうするか、の答えはでないかもしれないけど、行動の指針にはなる。いろいろなイメージが乱立してしまったいまだからこそ、もう一度、こころをまっさらにして東北の声に耳をかたむけつづけるべきだとおもった。




そして、釜石から手紙が、みやさんとりゅうたさんから届きました。心のこもった文面にすっかりやられました。ありがとう〜〜!!

2015年3月15日日曜日

おしりをみせてるおとこのこ

今日はクートラス展の最終日にすべりこみ。

前期後期とあったようなのだけど、後期しか行けなかった。ああ、でも、こんなにたくさんのクートラスのカルトをいっぺんにみられるなんて、たまらなくしあわせだ。どれもこれもが、あいくるしい。そして、はじめてみる絵もたくさん。立体がたまらなくいい。クートラスの夜がこころに降り注いでくるみたい。やっぱり図録ではこの静かな深みがでないんだなあ。しかたないけど。

カルトには「僕の夜」というシリーズ名がついている。夜、ひっそりと、明かりの下で、生み出されたのだろうか。ときに見えない者たちとも、カード遊びに興じることもあっただろうか。
 
実際にはきっと、経歴のなかにすこしばかり触れられているのだけど、社会の歯車のと歯車の間の闇で、ぎりぎりと心をすりつぶされたこともあったようだ。それでも消えない炎の色は深く、紙や板の上にそっとしっかりと焼き付けられている。夜のちからを借りるようにして。

「僕の夜」シリーズには、繰り返し現れるいくつかのモチーフがある。そのなかで、なぜかおしりをみせている子供?がいるのだけど、それが、かわいらしくてとっても好き。どういう意味のモチーフなのだろう。


さて、このなかでお尻の子の絵はどれでしょうか?






幸福な読書のはじまり

今日は土曜日。作業もお休みです。
午後は西麻布まででかけて、とある出版社の地下のカフェで、前々から計画していた読書会を開きました。課題図書はジュンパ・ラヒリの『低地』です。こういう出会いをしなければ、読まなかった本なので、参加者も、うなることしきり。おもしろい話が沢山飛び出しました。某編集長から、次回はピクニックしながらやろう!みたいな話もでたりして盛り上がり。読書のこんな明るい楽しみ方があるとは。知りませんでした。会のもようは、なんらかのかたちで発信していく予定(らしい....と、ひとごとのように予告しておきます)写真は、主催のさばこちゃんのFBより、転載しています。

その後、中目黒で別件打ち合わせ兼飲み会でしたが、打ち合わせは全くすすまず、ひたすら飲んで、ラッシュの電車にゆられながら帰りました。明日は、クートラスの最終日だ.....!




            photo さばこ

2015年3月13日金曜日

謎の高地民族

なんだか、このところ、酸素が薄いところで暮らしているような気分です。
酸素が薄いのに体が慣れるのを待つしかありません。高地民族です。民族衣装はどんなのにしようかなあ。

こういうラフな絵がたのしいのです。申告書を提出したとたん、仕事関係がまた、ばたばたっと進展して、今年は、出版系の仕事が増えるかもしれません。でも、自分発信のインディーズ出版と紙プロダクトを是非とも充実させたいし、売り絵もひきつづきやっていきます。この数年、個展はしておらず、オファーをいただきながら、ずっと、生意気にもお断りしてたところがあるのですが、ちょっと気持ちがかわってきました。精力的にどんどん受けていきたいです。

あまりバラけず、リンクさせながら、これらをこなせればとおもいます。






2015年3月12日木曜日

不眠症のキツネ

エスキースのそのまえの助走中。とにかくやることがいっぱいありすぎて、考えただけで憂鬱になっている自分。
パジャマではなくて、スーツです。なぜかぼろぼろに。狐はとても描きやすいです。なんでだろう??

 前々日にUPした「本を夢見る旅の続き」は、なが〜くなってしまったのと、書いても書いても、なにか伝わらない感があるので、またあらためて、震災と表現について書くことで集約しようとおもいます。でも、或る程度書いてみたことで、少し頭の整理ができました。おそらく.......わたしは、おおきな災害を憂う気持ちと自分の表現への熱をおなじフィールドには同時に存在させることができないのかもしれません(tarabooksのような版画と文字の美しい本をつくりたいという情熱の延長線上に、被災地の活字との出会いがあり、そのままわたしをつき動かしたわけですが......)。否定的な意味ではなくて、ひとには向き不向きがあるということで。そのことに気づいただけでも、振り返ってみたことはよかったかもしれません。そのうち、もうすこし、ちゃんと整理してみよう。

 記事は消した訳ではなく、保存してあるので、もし再読されたい方があれば、コメントでもDMでもいいので、ご一報くださいませ。




2015年3月11日水曜日

胡桃を見つけたよ

本の仕事その2のためのエスキースです。
かたちになるのは一年以上先になりそうですが、準備のそのまた助走です。
でも、確かにいえることは「胡桃をみつけた!」ってこと。それでじゅうぶん、欲張ってはいけません。

今日は四年目の3.11。避難者はいまだに23万人。住宅整備いまだ15%。
もうすでに、人災だとずっといわれているけど。東北のひとはおこらないなんて、やさしすぎるのだろうか。そんなこと責めるのは、まちがいだけど。怒る気にもならないのかもしれない。日本はどこかおかしい国だとおもう。イメージを食べて生きているようなところがある。被災地に関するイメージをふくらませすぎてはないだろうか。それも構わないんだけど、イメージのために見えなくなるものもあるとおもう。たとえ善意でも。わたしたちは、こと東北に関しては発信者になるまえに、まず、よき受信者であるだろうか。ともう一度よく考えたほうがいいのかもしれない。地元からのたくさんの発信があるのに、それには目もくれずこっちが発信することばかりだったり。まずは、受信することから。はからずも、震災に関連する表現にかかわったことで、いましみじみと感じることがある。このことは、しばらく考える課題です。

藤澤印刷さんから電話があった。写真アルバムを作って送ったので。ほんとうはもっと早く送ろうと思っていたのに、もたもたしていたら3月になってしまって、なんとなく、3月11日の今日になった。ちょっと長話をした。3.11ですね。みたいな話はどちらからもでなかった。そういうものかも。「なんとか、生ぎでるよ〜」と、言っていた。こうして、電話で話すにも、なにか理由がないとできなくて。遊びにいきたいけど、岩手がもうすこし近かったらなあ。



2015年3月9日月曜日

夜の夜

鯛の鯛って知ってますか?
鯛のお頭のなかに鯛みたいなかたちをした骨があって。それが鯛の鯛。
今日の夜のドローイングは夜です。夜に夜を描いてみた。夜の夜。

このところ、弱りつつも、ひととのやりとりのなかで、やさしい言葉にほわっと気持ちがあたたかくなることが少し続いて。忙中閑あり。じゃなくて、弱中暖あり。ってかんじで。そして、わたしはわかりやすいやつらしく、ああ、やっぱり。とおもって、そんなことを指摘してくれるお友達がいてくれてうれしい。ヴェンダースの「ベルリン天使の詩」のなかに天使がふわっと降りてきて<見えないけど、いるよ>って台詞があったりするけど、ネットの世界でも、見えないけど暖かいまなざしを送ってくれるひとが何人かいたりして。いるねって思うときがある。天使。ありがとうございます。わたしも誰かの天使的存在になりたい。もう少し元気になったら。



2015年3月8日日曜日

そういえばほそく

先日、高橋源一郎氏の対談をすごく共感するとかいたのだけど、高橋源一郎氏は、原発okで、改憲賛成派ということなので、ここは、共感できないです。あまりへんにいいたくないけど、「猿たちが火を見て怖がっているようだけど、ちっとも怖くないのにねえ。あははは」って言われているようで、若干猿の気持ちになりつつ......。こういう論争はずっとまとまらないだろうけど、憲法九条はファンタジックな存在なので、ちょっとでも亀裂がはいればすべてがくずれてしまう部分なんだと思う。感覚でものをいって、またそれ、猿的なんですけどね。

新しい太陽

といっても特にあたらしいというわけでもなく。
自分にとっては、確かにあたらしい。
波形の線で、陽の光を。と、思いついたものの、描けるかどうかはべつ。べつあたま。
楽しいですけど。いつかはきっと、描けるよね(いつかじゃこまるんじゃが)。
このあいだブロッコリーの木を描いたけど、次は、今度ご一緒させていただく、ブロッコリーの頭をしたデザイナーさんのことを描こうかなと思いつつ、夜のドローインングも太陽を描いている。もうすこし、もうすこし。

ネットあれこれみてたら、友部正人さんの書評データベースをみつけた。
熊谷守一の『へたも絵のうち』がおもしろかった。
なんとなく読んでなかった本だけど。そういえば、画家の本てあんまりよんだことがない。
友部正人新詩集『バス停に立ち宇宙船を待つ』も気になった。
なぜ、友部正人さんが気になるかというと、ヴィンセント・ムーンが友部さんのドキュメンタリーを撮っているから。いつか、上映したいもののひとつ。



それで今日も

広がる夜。

広がる液。

音もなく。







かだってマルシェ鎌倉出張所にて

鎌倉で震災復興応援のかなり大きなイベントが開催されていたので行ってきました。釜石で朗読会を開催させてただいた、かだってさんのなかにあるマルシェが出張しているいうことで、積極的消費活動に....!この籠網小物入れは、活字展の活字を提供された藤澤印刷さんの活字職人である次男こうじさんのおくさまのお手製で、前にも購入しましたがとってもかわいいのです。大槌の刺し子もかわいかったのでびっくり。大きなプロジェクトとして動いているんですね。かだっての常陸さんにもおあいできたし、わかめやサバ缶やらドライフルーツやら、ハピスコーヒーやら買い込み。なかなか遊びに行けないし、こんなことしかできないけど、いつまでも応援しています。

震災と表現について、最近、考えています。こうして、おかあさんたちが手を動かしたりしながら、いろんな可能性を広げていく活動は、あちこちにありますね。理屈でなく楽しむために地元のみなさんが表現していくこと。地元から元気になることがなによりだと思います。刺し子製品をアマゾンでも買えるなんて....。さすがです。おかあさんたちの手仕事がほんとにかわいいです。

大槌刺し子プロジェクトhttp://tomotsuna.jp/
ハピスコーヒーhttp://www.happiece.com/
かだってみんなの家https://www.facebook.com/minnanoie.cadatte



2015年3月7日土曜日

犬も歩けば虚の橋を渡る

代官山蔦屋へ。なんとか目的を果たしつつ、なんだかこのところの自分の不安定さを感じながら、本の背表紙や装幀を眺めて歩く。こんなふうに膨大なイメージの海のような場所を歩いていると、ますます自分が何処を歩いているのかわからなくなるけれど、ときおりふっと、あ、こっちに行けばいいんだね。という橋みたいなものがぼんやりと現れる。何度も手帳を出して、書き留める。ずっと頭の中でもてあそんでいた、詩に対する絵のイメージというか、そういう漠然としたものから一歩踏み込んで、こういうデザインで、こういうテクスチャーで、こういう手順を踏んで、絵にしていこう。という、具体的なビジョンがでてきた。これだけでも、このずいずいっと迫ってくるおしゃ空間をうろうろしたかいがあったかも。そして、不安定な気持ちのときは、色のなかに隠れるといい。という、ひらめきも得た。色のなかにかくれて、雨がとおりすぎるのを待つしか、すべなし。心の雨。




ピンクのセーターの女の子。




memo:がさがさした紙に、波だか光だかどちらだかわからない波形をかくこと。
銅版画ではリフトグランドの技法をつかう。

2015年3月6日金曜日

2015年3月5日木曜日

のばら

薔薇はのばらが好きです。




午前中にいろいろ検診。
 待ち合いの時間に、週刊朝日を読んでいた。高橋源一郎と北原みのりの対談がおもしろかった。シャルリー事件をうけての、言論の自由という考え方のこわさについてだった。「ただしいひとはこわい」という気持ちが、いつもわたしのなかにもあったから、ずいぶんと共感した。正義の怖さ、ひとが自由というときに指しているもののいいかげんさについて。ソンダクやハンナ・アーレントの話もでてきた。徹底した個として社会に発言することの難しさについて。法律のことばの世界では、対話が成立しないという話もおもしろかった。
 別の記事では、俳人の金子兜太のインタビューが載っていた。戦争前のはなし。秩父の田舎の開業医の家の子として、人々の貧困を目の当たりにし、ゆえに家の収入もおぼつかないなか、満州帰りの鼻息の荒い輩の吹聴が、貧しい農村部の戦争への意欲を高めていったという。金子兜太自身も、村の人々の幸せを願う延長上に、戦争へ肯定的な気持ちが育っていったそうだ。ひとは、日常のなかのどこで、どんなふうに間違ってしまうのか、もっと知りたいと思った。
 上記のふたつのはなしから、勝手にみちびきだしたこと。「だめなやつ」とみなされることは(わたし)、そう、悪いことではないかも。都合良く解釈。ただ、だめ認定をされると、発言権を奪われる場合がある怖さも確かにある。声が大きいひとが前に出て話すばかりになってしまう。声の大きいひとこそ「ただしいことはこわい」という意識を持ってくれたらと思うけど、声の大きさと正義感の強さって、一般的には比例している場合が多い。ただ、表現の世界は、力だけが影響力を持つ秩序を撹拌させ、その関係性を転換させることができる(反するという立場ばかりではなくて)。どんなに小さな声でも発信していることは大事だと思う。

 なんか、暗い感じのことつぶやいて終わっている先日。とりあえず、解決しそう。いまのところは余地あり。

2015年3月3日火曜日

眠れない夜の小鳥たち

 今宵の夜の木は穏やかでないようす。ごりごり描くと、紙がそるので、写真がとりにくくなってしまう。
 明日は、新しい仕事の資料を持って外にでよう。少しずつ頭の中で描いていくこと。紙の上に現れる前の大事な助走。頭の中にほこらがないと作れない。絵を描くのは、誰のためとかではないのだけれど、自分のためというわけでもないように思う。でも、じぶんのサンクチュアリは守らなくちゃ。また、なにか生み出すために。
 生きているから、自然のなかのいびつさや、ひとのこころのいびつさ。わたしというもののいびつさ。に、いやでも出会ってしまう。惑わされずに、まっすぐ歩きたい。ああ、ちょっと、きょうはこんな低めなかんじ。

表現者なんて、なんにも持ってない。持っていたら、できない。ほんとうに、ほんとうに、弱い立場。でも、また、立ち上がって、歩いていかなくちゃ。てぶらのままで。







memo:夜のドローイングをエスキースにすること。今日と同じ、青いインクで。

チェマダンと団長

 代官山蔦屋へ。なんだか、本屋とは思えないにぎやかさにびっくり。しかも、おしゃなやからでいっぱい。店員さんまでおしゃおしゃ。建築コーナーでデラシネ通信で紹介されていた「チェマダン」という、パンフレットを手に取る。ロシアアヴァンギャルドは好きだったので、好んで資料を集めていたころがなつかしい。黒と赤とブルーの世界がなんともいえない。こういうデザイン感覚って、どのようにして生まれたのか。キリル文字からデザインを発展させていくと、こうなっていくのだろうか。国や民族特有のグラフィックデザインが、その国の文字空間と深い関係があると考えても、それほどおかしくないかも。印刷文化の世界。やっぱり紙とインクが好きだとしみじみ。
 ジュニパ・ラヒリを立ち読みして(すみません!次回は買います)移動。
 高円寺へ。活版印刷カードを置かせていただいてるコラボ高円寺へごあいさつ。ちょっと相談したいことがあって、切り出すと。小気味いい答えが返ってくるのでほっとする。

 



 家に戻ると、先日、わかさぎ釣りに連れて行ってくれたW団長から、団長が作っている雑誌が届いていた。ええ?W団長ったら、こんな立派な釣り雑誌つくってたんだ。と、なぜか知らずに、お友達していました。まあ、そういうこともあり...。ちなみに、写真の号には団長がダイオウイカ?!を釣った記事がのっていました.....!


2015年3月2日月曜日

夜の木には小鳥が沢山眠っている

ドローイングふたつ

夜の木には小鳥が沢山眠っている




オオカミの目に映る燃えている木






memo: 青いインクだけで、小鳥の絵をかいてみること。



デュラスの『廊下で座っているおとこ』を読んだ。色気がありすぎてくらくらした。




2015年3月1日日曜日

夜の木 # 3

今夜の木は、すこしやさしいかんじ。ほんとは幹を白にしたかったのだけど、白いパステルがなかった。今週一週間は出ずっぱりになりそう。なかなか会えなかった人に会ったり見られなかった展覧会を見たりできる。そういうゆるゆるした暖かい気持ちが絵にもでてくるのか。何枚か描く予定だったけど、風邪をひいてしまったみたい。これで今夜は眠ることに。昨日で二月尽。なにか冷たいものが尽きたかんじ。暖かさに向けて動き出したいところ。

或る作家(故人)のお宅で、その作家が生前好んで聴いていた楽曲を、同じ環境で研究者の話を聴きながら鑑賞するという、不思議な会合に時々顔を出している。いつも、その回のテーマは作曲家別になっているのに、次回は「クロイツェル・ソナタ」がテーマらしい。一曲をテーマに2時間か、もしくはそれ以上、どんなふうに取り組むんだろう。
「クロイツェル・ソナタ」は或る年の冬にずっと聴いていた。ほぼ毎日それだけ。とても好きな楽曲なので楽しみ。
体の中を駆け抜けて行くような音楽が、すごく好きなんだなあと思う。
ところどころに、楽しみの人参をぶら下げながら、なんとか生きていこう。

memo:
画面がもともと弱い。あえて強い画面づくりをするのではなくて、それをひとつの個性ととらえて、あえて弱い色や筆致で描くことで、強い画面(場)に変換する。バランスというか、場の力のありかたというか。グレイの色鉛筆でかくこと。白に近いインクをつかうこと。次は、木の幹からではなくて、枝の先端から描き始めてみること。