2015年2月28日土曜日

湖畔のドローイング

たまには普通にデッサンを。デッサンしてみると、自分の絵のへたさがよくわかってわらっちゃう。木を描くのはとてもたのしい。多分、何時間描いていても飽きないとおもう。





高滝湖

千葉にワカサギ釣りに来ました。やっぱり自然はいいなあ。ずっと引きこもっていたので、湖からの風が気持ちいい。



2015年2月27日金曜日

夜の泡

何日かかけて作った「蜘蛛女」の版が、けっこううまくいった。変身譚シリーズなので、不思議な画面ではあるけれど。絵さえうまくかければ、幸せな気持ちになれる。馬鹿といえば、馬鹿なのかもなあ。




夜のドローイング おおかみたち

三つ目のおおかみを描こうとおもったら、ちょっと怖いものになってしまった。でもきっと、夜の森でおおかみにであったら、たくさん目があるみたいに感じるんじゃないだろうか。毎日の夜のドローイングは自分のこころの定点観測みたいな感じになるのかなあ。と思ったりしながら。
 明日は、4時起きしてでかけるので夜は刷りだけをして寝るから、いまは夕方だけどやはりタイトルには「夜」をつけてみた。




遠い目をして

友達からこのbloggerだと、コメント入力がえらく面倒だという指摘がきた。うーん。せっかく、ここのフォーマットに慣れて、この広告のないすっきり感が気に入り始めていたのだけど。とりあえずは、このままにします。
 Facebookを主に告知などで使っていたのですが、ちょっとはまりすぎたのと、ひととのやりとりがたのしすぎたので若干、いろいろ影響があり、しばらく離れることにしました。でも、メッセージ機能は便利なのでそのまま使っているので、画面を開けるのだけど、ちょっと間を置いてみると、やっぱり広告がすごいはいりこんでいることに改めて驚く。それで経済がまわっているとはいえ、広告ってやっぱり、どこか害があるのじゃないか。それを、見ていることに無自覚だ。というところで。
 自分もそれがあるおかげで、くらせているのは確かなのだけど、例えば、間違いなく飲み過ぎれば体に悪いコーラを一本でも多く売るために、あそこまで「素敵でさわやかなわたしたち」を演出するって、なんだろうな。って、思ったりもする。そういう過剰さにいちいちた反発していたら、生きていけないけど、あるときから、あのさわやかさの演出は、イメージの暴力なのかもしれない。と、思ったりするようになったのだぁ(遠い目をして)。

夜の木 #2

夜のドローイングです。手と頭がぜんぜんちがうことをしてしまうなあ。



2015年2月26日木曜日

象の腹ゴロ

 先日、サーカスと象の講座を聞きに行った。
そのとき私は、いろんなことで少し気持ちが疲れていて、こんなときは象のことでも考えてみてはどうだろうか。と、思い立って王子まで出かけたのだ。
 でかけたことはとても良かった。講師の大島幹雄さんは、しきりと「象はすごいんだ、象はすごいんだ」と言っていた。いろいろすごいところはあるようだけど、そのひとつにコミュニケーション能力のすごさがあるらしい。なにやら(わたしの適当聞きかじりでいえば)お腹の中をごろごろいわせる音で、遠くの仲間と通信できるとか。ええ!すごい。このことはもっと知りたいと思ったけど、妄想のために調べるのはひかえておこうと思う。この「象の腹ゴロ」はひと同士にもあるはずだ。自分でも経験があるけれど、友達のなかでも、虫の知らせ的なものを受け取るひとって決まっている。他にも、何年も前に、「一緒に仕事しましょう」と言い合いながらも、こちらがやる気のときはあちらがそうでもなくて、あちらがやる気のときは、こちらの腰がひけていたり。なんだか、うまくいかない恋愛関係のようなことが続いて、それでも「あの話はいずれかたちになるだろう」と、妙な確信があったりするのは、互いに知らず知らずに「腹ゴロ」を交わし合って暖めているからじゃないかと思う。
 そんな奇妙な通信を交わしているひとは何人かいるように思う。妄想でしょ。といわれたらそれまでだけど。

 内輪の読書会があって、ジュニパ・ラヒリの『低地』を読まねばならなくて図書館に行ったら33人待ちで挫折。なんとなく背表紙を眺めていたら『象』の文字。村上春樹訳はあまりすきじゃないけど、借りてみる。デュラスの『廊下で座っているおとこ』というタイトルをすごくいいとおもって手に取った。デュラスは好き。物語に射す光にとろみがあるようで。



2015年2月25日水曜日

あおときいろの女の子

夜のドローイングです。実物は、もう少し暗い色味です。青いひとはまた描きたいな。





無名

多和田葉子著『献灯使』で、冒頭よりいきなり胸をつかまれたのは「無名」という主人公の名前だった。無名という言葉のもつ不思議な美しさと、まわりで旋回しつづけるイメージへの陶酔感。反義語に反して、無名という偏在性が、なぜか、そのあとに続く哀しい物語を予感させながら、はじめの衝撃から治癒の時間の甘さとともに、ゆっくりこころに沁み入ってくるようだった。

多和田さんの小説は、金太郎あめのように、どこを切っても完璧なおもしろさを持っている。たとえばこんな小さな場面にだって。

ーーコンピューターはないが、太陽電池で動く小さなゲーム機ならある。電池が弱いので、映像の動きはとても遅く、まるで能役者のようだ。そのためにスピードを競ったり、敵と戦ったりというゲームは全く流行らなくなり、最近は能にヒントを経た「夢幻能ゲーム」が市場を支配している。恨みを持って死んだ人たち、言いたいことを言いそびれて死んだ人たち、そういう死者たちの亡霊の語る理解しにくい言葉や断片的な妄想をうまく並べて一つの物語を作って、彼らにふさわしいお経を選んでやると、亡霊が成仏して消える、というゲームなのだが、消しても消しても新しい亡霊が姿を現すのはどういうわけか。それでも気を失うことなく遊び続けた人がこのゲームに勝ったということになるのだが、「勝つ」という言葉の意味を覚えている人ももうほとんどいなくなってしまった。
                         
                         ーー『不死の島』多和田葉子より







夜の木 #1

夜おそくには、エッチングの薬品をさわりたくないので、墨やパステルでドローイングをします。憧れの山口薫のように、身近なものと陸続きの地平に現れるものを抽象化していくような、絵づくりに挑戦しはじめています。一日、一枚、かな?




2015年2月24日火曜日

からまる足

蜘蛛を描いています。が、この八本の足が、いつしかうまく描けなくなって、からまりはじめました。そんなことに何日も費やしてしまい、自己嫌悪。三月にはこの状況からぬけださなくちゃ。







2015年2月23日月曜日

現場主義です

現場主義です。作り手ですから、現場以外の居場所はありません。
創造性をなによりも優先して、すきなひとたちと組んでみたり、あるいはひとりで黙々と。出来うる限り、いいものを作っていきたいです。いくつかのプランのなかにあり、並の集中力では、乗り越えられないことが見えてきました。夏までに形にできるようにがんばっていきます。






輪郭線とのお別れ

 線をみると、その人が絵を描けるひとなのかどうかがわかってしまう。というのは、うそかほんとか、わかりませんが。わたしは、そうだとおもっています。それだけ、絵画にとって線というものが、とても大事だと思います。ですが、このごろは、輪郭線をとりのぞいた画面作りをしています。このような一見抽象的に見えるやわらかな画面はもともと好きですが、どうやったら完成できるのか、模索していました。ようやく或る時期から見えてきた気がします。そしてまた、これからそれを掘り下げていく作業です。大事なのは、絵のなかの光の扱いです。ゴールがまったくないことに携わっているのは、なんともいえず楽しいことです。写真は「女性専用車両」という作品の試し刷りです。







2015年2月19日木曜日

『献灯使』多和田葉子

 すごい小説です。多和田葉子さんの『献灯使』。ひとによっては、しんどい、とおもうこともあるかもしれない、というところも含め(だいたい多和田さんの世界ってそんなかんじがありますが.......)、まるで美しい毒のような物語です。でも、多和田さんは、ほんとうにやさしいピュアな方です。おおげさではなく、表現者として人類のことを憂いているんだと思います。どんな物語にも、底に流れているやさしさがあることが、読み終わったあとにしっかりと残ります。絶望のなかから紡ぎだす光。必ず次の地平線が見えるところまで、また歩きたくなる。そういう強い物語です。






2015年2月5日木曜日

BEAR'S KISS

すすめられて、セルゲイ・ボドロフ監督の映画『ベアーズ・キス』を観た。サーカスで働く天涯孤独の少女とやはり孤独な熊のはなし。やがて、恋愛の物語となっていくラブロマンスだが、サーカスの人々の人間模様が中心となっている物語にも見える。いずれにせよ、なにか、とても孤独感がつのる作品である。サーカスが街を移るたびに、挿入されるイラストが童話的で素敵だった。





2015年2月3日火曜日

砂糖菓子願望

エドガー・リー・マスターの『スプーン・リバー』をオマージュしたジャコメッリ写真集。この写真集ほしかった。古本屋さんの案内をメモったけど、もう売れたあとだった。頭の中を砂糖菓子みたいに甘ったるくしたくてしかたないのに......。