2022年11月8日火曜日

草活版印刷者

 もう何年も前から、活版印刷をかじっていて、少ない活字で作品をつくったりしていたのだけど、なんとなく自分がちゃんとした活版印刷の技術や設備を持っていないので、それで「活版印刷やってますよ」みたいなことは言えないなと、思っていた。
 印刷技術をもった方々の仕事が薄紙一枚のスペースの調整を行うようなミクロの世界だったので、自分はやるべきじゃないという気持ちになってしまっていた。

 けれどふと、野球だって....プロのように豪速球が投げられるわけじゃないけど、野球を楽しみたければ草野球という世界があるように、活版印刷を好きに楽しんでもいいのでは....?と思った。実際、わたしが使っているADANAという活版印刷機は、個人で楽しむためのものなのだ。いわば昔の家庭用プリンター。楽しくつかいこなしていこう。

 
 もし、印刷してほしい言葉のリクエストがありましたら、下記にメッセージを送ってください。詩片でも、グリーティングでも。固有名詞以外でしたら。



 

2022年9月23日金曜日

ヤンソン・サンドウィッチ

トーベ・ヤンソン・コレクションの再読。ヤンソンさんが続くと、わたしは結構メンタルきつくなっていくので、間にいろいろはさみむのだ。ヤンソン・サンドイッチ方式で読み進める..。

『誠実な詐欺師』は最初に読んだときと印象が違っていた。最初に読んだときは、ボートが少しずつできあがっていくところに、どこかわくわくするような感情を抱いていた。湖の光や、マッツの無垢な心など。どちらかというと穏やかな読後感だったのだ。

 再読して、カトリの目的のために徹底的に策略を練り、実行を遂行する隙のない性格と、アンナのおおらかなのか無神経なのかわからない隙だらけの性格、そのぶつかりあいは、結構、きつい話でもあった。人間関係のしんどさはいつもトーベ・ヤンソンの世界にはむきだしに現れる。あのムーミンの可愛らしさとは、ほど遠い。(ほんとうはムーミン谷だってそうなのに...。世界中の読者の偏見にふりまわされいらだつアンナは、どこかヤンソンの投影でもあるのだろうか)

 けれど、ふっと心がほぐれる瞬間がある。
 たとえば、カトリが弟のマッツに内緒でボートをボート職人に注文したとき、彼はまわりにそのことを内緒にすべく嘘をつく。そのときの、
「この嘘は、一目おく人間に贈りものをするのと同じくらいごく自然に、口をついたのだった」
 という表現。村の人々は、カトリを頼りつつも、アンナに対する詐欺まがいのふるまいに、冷たい視線を向けていて、彼もそのひとりでもあったのに、カトリの弟に対する愛情を知って、心がほぐれた様子がこの一文でわかる。なんだかほっとした。
 わたしはいつのまにか、カトリに心を寄り添わせようとしている。普通に考えたら、ちっとも好きになれない女の子のタイプのはずなのに。しかも犯罪まがいのことをしているのに。

 ふとなぜか、映画『万引き家族』を思い出した。どこにも似たところはないのだけど、あの映画の、あの家族は、世間の目から見れば、犯罪に手を染めたとんでもないやつら。なのだけど、それぞれの心のうちに隠し持つ、競争社会にはとうてい打ち勝てない弱者が同じ弱者にむける共感と優しさのようなもの。や、なんで、たくさん持っているひとと、持ってないひとがいて、持っているひとはそれを有効に使えもしないのに、使えるひとが勝手にそれをしようとすると、避難されるのだろう。そもそも、お金や経済システムは間違っているのでは?とまで思わせてしまうなにか。それがこの物語にもあった。

 カトリの犬もまた何かを象徴していた。従順にさせることで、犬が生きやすくさせているというカトリの気持ちを逆なでするように、アンナが犬に好きに遊ぶことを教えてしまった。そのため、犬は混乱し、野性のもののように遠吠えをするようになり、やがて森にかえってしまう。再読して、そこに物語の奥行きと深さを感じた。野性を愛し、そこに帰りたかったのは、本当はカトリだったのかもしれない。現代の生きにくい世界と徹底的に組みしようとする誠実なカトリだからこそ。などと、思ってしまった。







 
 


 



 

2022年8月25日木曜日

朝日新聞連載小説『白鶴亮翅』多和田葉子著が終了しました

 この半年間、挿画を担当させていただいた、朝日新聞の連載小説『白鶴亮翅』多和田葉子著は8月14日に最終話をむかえ、終了しました。
 はじめて新聞小説を毎日楽しみに読んでいる。という声もいただいたり、多和田葉子さんの、小説の魅力をあらためて感じながら、挿絵を描かせていただきました。

 半年というのは長いようで短くあっという間ではありました。版画という技法をつかって毎日の挿絵を描くのは、無謀ではありましたが、今思えば、版画でやってみてよかったと思います。内容によって技法を変えているので、雰囲気のばらけた感じがあったかと思います。自分ではいいとおもっていたのですが、果たして...

 多和田さんの描く女性の日常は、不思議な奥ゆきを度々見せてくれて、くすっとしたり、そうそう、とうなずいたり、難しい問題について考え込んでしまったり...とてもいそがしく、それは、とても楽しい忙しさでした。挿絵となると、描くのが難しいものもありましたが、楽しんでいただけたのだったら嬉しいです。多和田さんには、ベルリンから、実際の太極拳教室の様子や蔵書の写真など送っていただいたり、ファンとしてはこのうえない嬉しい交流がありました。そして、実在の場所や史実がある場合、ほんのちょっとしたカットを描くにも、間違っていはいけないので慎重にせねばならず、そういう経験はあまりしてこなかったので、とても新鮮でした。

 挿絵は、そのうち、全回分をウエブなどで公開できたらとおもいます。
 これからも多和田文学から目が離せないですし(『太陽諸島』ももうそろそろでしょうか)、そういう日々の楽しみがあることが、生きていく理由のように思います。

 最後のシーンは雪のベルリンでした。
 猛暑のなか、小説からの涼やかな贈り物のようでした。




 

2022年8月5日金曜日

ice cream castles

先日ネットで映画『Coda』を観た。青春映画、好きなのです。。  

最後に主人公が歌うジョニ・ミッチェルの『both sides now』 がなんだか久しぶりに心に響いて、それからよく聴いている。ジョニの声が好き。
 例えば、つらいときにはいつでも私を呼んでよ、と歌うキャロル・キングの優しさも好きだけど、この歌の凛とした哲学的世界は、なんだかいまの自分にとても沁みてくる。 なにかに頼ろうとやたら触手をのばして喘いでいるのは、多分、コミュニケーションツールが増えたせいなのかもしれない。 

 この歌詞のなかのicecream catsleという言葉が好き。 

同じように、可愛い言い回しで好きなのが、across the universの最初の 「言葉たちは止まない雨のように紙コップへこぼれおち...」というところ。グラスでもマグカップでもなくチープな紙コップから...universは繋がっている....。  

いま熱波で熱い日々。icecream catsleがどこかにあるなら、しばらく籠城したいと思う。 

 Rows and floes of angel hair 
And ice cream castles in the air 
And feather canyons everywhere 
I've looked at clouds that way
 But now they only block the sun 
They rain and snow on everyone 
So many things I would have done 
But clouds got in my way 

 I've looked at clouds from both sides now 
From up and down 
And still somehow 
It's cloud's illusions
 I recall I really don't know clouds at all


2022年5月23日月曜日

ちかくてとおいひと

自分にとって、最も近くて、最も遠いひとは、家族なのだろうか。
 昨日、認知症が進んだ母が老人介護施設に入所した。 

 徘徊がはじまってからでは、遅いのではということになったのと、 ラウンジから葉山の海を一望できる感じの良い施設に丁度空きがみつかったことと、 いろいろな偶然がかさなり、姉と決断した。

 が、やはり、昨日、だれもいなくなった実家に立ち寄った時には、 さびしく、哀しかった。 もちろん、亡くなった訳ではないのだけど、遠くに行ってしまったのだな。と思った。 

この数ヶ月で、母はときおり幼児化した様子をみせた。 仕事場をなかなか離れることができないわたしに、電話でこんこんと不安をうったえ、 こちらも渾身でなだめ、 電話をきって10分後にまた同じ内容の電話が.... ということが一日中というなかで、なんとか仕事をすすめていた。出来るだけ、泊まりに行ったりもしたが、次の日には行ったことも覚えていなかった。親子だから構わないのだけど、いろいろ心配ごとは大きくなっていった。 存分にそばにいてあげられない自分の状況にもいらだった。

いまなんだか、ぼんやりしてしまって、映画をみてしまった。 『浅田家!』という、写真家の浅田政志さんの実話をもとに作られた映画。 なにかと泣けてしまって、とてもいい映画だった。 家族っていいな。という思いとともに、家族は儚い。と思った。 

ちかくてとおくてはかない。だからいとおしく、どこかこそばゆいのか。

 あるとき、母が電話をかけてきたのでとると「かずこちゃんよ!うふふ」 という声がした。まるで、友達みたいで。 きっとこのまま、認知症がすすむと、わたしが自分の娘であることもわすれて 「お友達になってね」とか、いいそうだ。 哀しいけど、それでもいいか、と思った。また、「はじめまして」から家族になろう。

2022年2月9日水曜日

ある日の保土ヶ谷体験

 
 
日々のくらしのなかで、なんでもないことなのに、いつまでも印象が薄れない体験というものがいくつかあって、そのなかのひとつに「保土ヶ谷体験」と名付けてみた。
 
数年前から、北鎌倉に小さなアトリエを構えていて、版画以外の作業をできるようにしている。使い勝手がいいとは言いがたいのだけど、そこへ行くことは、少し日常とは離れた時空を得ることになり精神衛生上とてもありがたい。自宅からおよそ30分、クリーム色と紺色のツートンという地味ながらも鉄のかたまりらしい重厚さと品のようなものを纏った横須賀線にゆられていく。数時間、wifiもなく、誰もいないアトリエで作業をして、静かにまた電車にのって、帰る。  横須賀線はJRだが、家のある私鉄沿線沿いとはややちがった趣がある。野性味というのか。だから、停車駅にも野性味がある、と、私は勝手に思っている。北鎌倉から、大船、戸塚、東戸塚、保土ヶ谷、横浜と停車するとき、わたしは頭の中で、それぞれの駅にまつわる思い出というのか、記憶を、毎回毎回、飽きもせず、呼び覚ましては確認している。そうでないと、野性味のある薮のなかに途中下車してそのまま迷子にでもなってしまいそうだからだ。  それぞれの駅には、それぞれの記憶がある。が、ただ、保土ヶ谷にだけ、なんの記憶もない。記憶のないどころか、保土ヶ谷っていったいなんなのだ。という感情さえ抱いていたりする(失礼な話だとはおもいつつ)。戸塚にも横浜にもなにかしらの記憶や思い出、あるいは、その街に対するイメージとそれらから想起される感情のようなものがある。豊かすぎるほどにわき上がってくる。ところが、保土ヶ谷にはまったくそれがなかったのだ。保土ヶ谷に停車する度に、ただ、ああ、もう横浜なんだな。と、思うだけだった。  ある日のこと。わたしは、買ったばかりの多和田葉子さんの新刊『星に仄めかされて』を、横須賀線のなかで読んでいた。わたしが、多和田作品ですごく好きなのは、言い回しや視点が、息つく暇もないほど、とめどなく面白いこと。頭の中のいつもは閉じている部分が、天体観測所の望遠鏡が出るとこみたいに、ぱああああっと、開いていく心地がするところだ。  その時も、わくわくしながら読書していた私は、どこかの駅に停車したことを察してなんとなく顔をあげた。すると目の前に「保土ヶ谷」という駅名看板が現れ、さらには、その「保土ヶ谷」という文字がばあっと輝いていたのである。その時私は、ああ、そうだ。保土ヶ谷ってものすごく面白いところ、夢の国だったじゃない。おお、素晴らしき地、それは保土ヶ谷。と、思ったのだ。 ほんとにそう思った。 何でそう思ったのか、未だにわからない。その時、きらきらしてみえた保土ヶ谷はなんだったんだろう。 今も思い出しては不思議である。おそらく、読書によって開かれた意識から派生した感覚なのだろうけど、なぜ、それが保土ヶ谷にのっかったのか。 ちょっと思ったのは、小林秀雄の『モーツアルト』だ。でもそれとも違う。 いずれにしろ、その日からわたしのなかで保土ヶ谷は魅惑の未踏の街となった。

2022年1月23日日曜日

2022年2月1日より朝日新聞連載小説の挿絵を担当します。

2022年2月1日より朝日新聞連載小説『白鶴亮翅』多和田葉子・作の挿絵を担当させていただきます。 ベルリンに暮らす女性の日常が描かれます。 くすっにやっふむふむとする場面も多いので、絵でもにやっと...あわせてにやにやっとさせることができたらと思います。 多和田葉子さんとは昨年『オオカミ県』という絵本を出版いたしました。その流れでのオファーかとおもいますが、 『オオカミ県』とはまた違った世界なので、今度は腐食銅版は少しと、ペーパードライポイントと着彩を主な技法として制作します。 銅版画よりやや軽やかで、色数も多くなるかとおもいます。 誌面ではモノクロだったりカラーだったりですが、デジタルですと毎回カラーでご覧頂けます。 半年間、どうぞよろしくお願いします。