トーベ・ヤンソン・コレクションの再読。ヤンソンさんが続くと、わたしは結構メンタルきつくなっていくので、間にいろいろはさみむのだ。ヤンソン・サンドイッチ方式で読み進める..。
『誠実な詐欺師』は最初に読んだときと印象が違っていた。最初に読んだときは、ボートが少しずつできあがっていくところに、どこかわくわくするような感情を抱いていた。湖の光や、マッツの無垢な心など。どちらかというと穏やかな読後感だったのだ。
再読して、カトリの目的のために徹底的に策略を練り、実行を遂行する隙のない性格と、アンナのおおらかなのか無神経なのかわからない隙だらけの性格、そのぶつかりあいは、結構、きつい話でもあった。人間関係のしんどさはいつもトーベ・ヤンソンの世界にはむきだしに現れる。あのムーミンの可愛らしさとは、ほど遠い。(ほんとうはムーミン谷だってそうなのに...。世界中の読者の偏見にふりまわされいらだつアンナは、どこかヤンソンの投影でもあるのだろうか)
けれど、ふっと心がほぐれる瞬間がある。
たとえば、カトリが弟のマッツに内緒でボートをボート職人に注文したとき、彼はまわりにそのことを内緒にすべく嘘をつく。そのときの、
「この嘘は、一目おく人間に贈りものをするのと同じくらいごく自然に、口をついたのだった」
という表現。村の人々は、カトリを頼りつつも、アンナに対する詐欺まがいのふるまいに、冷たい視線を向けていて、彼もそのひとりでもあったのに、カトリの弟に対する愛情を知って、心がほぐれた様子がこの一文でわかる。なんだかほっとした。
わたしはいつのまにか、カトリに心を寄り添わせようとしている。普通に考えたら、ちっとも好きになれない女の子のタイプのはずなのに。しかも犯罪まがいのことをしているのに。
ふとなぜか、映画『万引き家族』を思い出した。どこにも似たところはないのだけど、あの映画の、あの家族は、世間の目から見れば、犯罪に手を染めたとんでもないやつら。なのだけど、それぞれの心のうちに隠し持つ、競争社会にはとうてい打ち勝てない弱者が同じ弱者にむける共感と優しさのようなもの。や、なんで、たくさん持っているひとと、持ってないひとがいて、持っているひとはそれを有効に使えもしないのに、使えるひとが勝手にそれをしようとすると、避難されるのだろう。そもそも、お金や経済システムは間違っているのでは?とまで思わせてしまうなにか。それがこの物語にもあった。
カトリの犬もまた何かを象徴していた。従順にさせることで、犬が生きやすくさせているというカトリの気持ちを逆なでするように、アンナが犬に好きに遊ぶことを教えてしまった。そのため、犬は混乱し、野性のもののように遠吠えをするようになり、やがて森にかえってしまう。再読して、そこに物語の奥行きと深さを感じた。野性を愛し、そこに帰りたかったのは、本当はカトリだったのかもしれない。現代の生きにくい世界と徹底的に組みしようとする誠実なカトリだからこそ。などと、思ってしまった。