2020年11月25日水曜日

シャボンの惑星

 先日、北条民雄『いのちの初夜』を読んだ。ずっと、手に取らなかった小説である。手に取らなかった理由は、タイトルの迫力にあったと思う。ただ、なんだか、怖かった。

 なんとなくなかなか読まない。そういう本はいくつかあるが、あるときふっと開いて、あっけないくらいするっと読めてしまう。

「いのちの初夜」は読んでみれば、瑞々しいものだった。瑞々しいというのはわざとらしい言い方かもしれないけれど。絶望の淵にだけ沸いている誰も触れることが出来ない力強い湧き水のようだった。

 北条民雄はハンセン病患者として療養所(隔離所である)で生活をしながら、執筆をしていたことで知られた作家である。病気のイメージがどうしても、作品と出会う入り口になってしまうのは、仕方のないことかもしれない。ハンセン病は、病そのもののみための特徴のみならず、風評や法によって長い間隔離と差別をされていた、少し特殊な病だからだ。しかも、そのみためによるところが大きく影響して、なにか、ひどい負のイメージが塗り籠められてしまっている。北条民雄は、その裏には気の遠くなるような感情に支配されていたのだろうとは思うが、徹底的に塗られてしまった負のイメージに怒るでもなく、抗うでもなく極めて客観的に、受け止めようとしているようにもみえる。自死を冷静に遂行しようとするさまにも、感情の昂りのような様子はなく、それがかえってリアルだった。

 この世には沢山の差別や偏見に満ちあふれている。コミュニティの大きさに関わらず。自分だって、何も持っている訳ではないので、例えば他愛のない、容姿のことや、学歴のことなどでいやな目にあったこともある。外国へ旅行すれば、人種差別としてちょっとしたやな目にあうこともある。しかし、それは、ほかのことで紛れるような一時的なことである。気にしないか、そういう目にあわない場所や人を選べばいいだけだった。

 けれど、患者たちは、逃げ場を取り上げられた。逃げられなくなった魂は浄化を目指した。魂は尊い動きをする。他人が触れなければなおのこと。まるで手つかずであるほどに自然が美しいように。ただ、そんな美しさなんかより、自由になりたかっただろう。いのちだけの存在になっていくのはたまらないだろう。俗に汚れることもまた、生きる楽しみであるから。

 いずれにせよ、当事者ではなかったものには、とうていわかろうはずがない。それは、どんな差別や病や被災や被害者にもいえることだとは思う。

けれど、到底他人には理解することのできない状況に置かれてしまった人々を知った時、わたしはいつもわたしも彼らも、色という世界のなかのグラデーションのなかにいるのだと思うようにしている。

わたしたちはグラデーションのなかにあって、それぞれ色は違うが同じ地平に立っている。

あたかもシャボン玉の表面のように、さまざまな色が移ろっている惑星で、時に青くなったり、紫がかったり、赤くなったりている。誰の間にも、線がひかれているわけではない。ひとりひとりが立っている。線のようなもので繋がっているわけではない。ただうつろいの色のひとつひとつにすぎない。

シャボンの表面では、めまぐるしく色が変わる。

差異があったとして、それはめまぐるしくかわっている。

それが変わらないとおもっている停滞した心が、差別に対する鈍感さだと思う。

わたしたちはシャボン玉でできたこころもとない惑星の表面で、

レイヤーがあるわけではなく、緑になったりオレンジになったり変化しつづけている。


北条民雄が受け入れたものってなんだったのだろう。

ただ、差別を叙情や感覚のなかに収束させてはいけない。そのほとんどは、人為的なシステムによるものでもあるのだから。






 





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