絵本の仕事は、まだ四合目ですが、だいぶ版画のイメージの落ち着き先がみえてきました。
それがまったくみえなかった数ヶ月前からすると、こころは平穏です。あとは、時間との戦いだけ。ビジョンが見えていれば、とりあえず時間とは闘える...。
この数年、INNER MOUNTAINというシリーズのドローイングをしていて、「心の山の風景画」というものを描いていました。(内容についてウエブマガジン「水牛」に拙文を寄せています。)
つまり、いままでのようなイラストレーション的な雰囲気での銅版画の仕事から、より絵画的でカラフルな抽象画へ移行しているところでした。
もちろん、ひとりの人間がやっていることなので、具象でも抽象でも、その内面的なものはでますし、それらが私という地下茎で繋がっていることは確かです。それら一見ばらばらな作業の接点を探り当てて、またあらたな展開を試みようとしているところでした。
なので、がっちり銅版画を作るということは、進もうとしているところを引き戻されるような感覚でもあり、どう対応したらいいのか、どういう制作プランをたてたらいいのか、突如混乱してしまったのです。ムカデが足をどううごかしてたのかわからなくなってしまったというかんじです。絵本制作という憧れていたことが現実となり、プレッシャーも相当ありました。
おそらく、コロナうつにもなりかけていたと思います。その混乱から落ち着けたのが、編集者Fさんの「自分の手を信じましょう」という言葉でした。
これがてきめんで、わたしはようやく、銅版画との向き合い方をあらため、制作の息を吹き返したのでした。
版画は手順がとても大事ですが、銅版画の制作手順の見直しは、当然のことながら絵に影響を与えてきました。ただ、それが、なんだか面白くも思えて、いままで自分がどんな銅版画をつくりあげたかったのか、まだ追求し終わらないうちに画風を替えつつあったことがわかりました。つまりわたしはまだ、いままで自分の版画をひとつも作っていなかったのです。愕然というよりは清々しく感じています...。いいのですきっと、その時期が早くくる作家もいれば、わたしのようにとても遅いものもいると思います。まだまだ改変して、自分の絵をつくりあげなければと思いました。
絵を描いていると、つくづく答えのない世界であることを感じます。外からなにかを持ってくるとすべてがくずれてしまうのです。
新しい画面をむかえたら、そのつどなにもない空間のなかに点睛は探し歩かなくてはいけません。近道や楽な道はひとつもありませんが、鼻歌のレパートリーは増えていきます。
いつもはじめの一歩から。
道ばたの秋のタンポポです。
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