二十年前の夏のおわりに大好きだった祖母が亡くなった。私と母は、納骨のために祖母の故郷であり、母の生まれ育ったところでもある長崎へ向かった。横浜に住んでいた私たちが長崎に行く機会はほとんどなく、なにかこういうことでもなければ、母ももう長崎には行かなかったかもしれない。
長崎に親戚は多く、納骨を終えて、わたしと母は三人の叔父と、その従兄弟で長崎県瀬戸に住む濱太郎おじさんを訪ねた。叔父たちも横浜に移り住んでしまっていたので、かなりひさしぶりの参集だったことと思う。
濱太郎おじさんは長崎の瀬戸で医院を営んでいる。瀬戸には海と山があり、はじめて訪れたわたしはその空と海の青の濃さが不思議でならなかった。ほんとうにこの空は私の住んでいる町とつながっているのか、と。医院はこじんまりとしていたが、レトロモダンなとても好ましい建てものだった。
母たちと濱太郎おじさんは、子供時代の話におおいに湧いていたが、どことなくその場所には不思議な空気が漂っていた。普段は貫禄があってとがった感じの叔父たちが、なんだかちょっと緊張しているようにみえたのだ。あとで母に聞くと「はまにいちゃんのことが、みんな大好きだから」と言った。濱太郎おじさんは、子供のころから、母たちにとっての憧れのお兄さんだったのだ。叔父たちは出されたビールにあまり手をつけてなかった。グラスはしっとりと汗をかいていた。
共通の話も持たないわたしは、キッチンの手伝いに行くふりをして、医院のなかをうろうろした。中庭に面した廊下に、細長い引き出しがたくさんついた大きな木製家具があった。一体なにが入っているのか、ついその一つを引きだしてしまった。
その中には、おびただしい数の蝶の標本が気の遠くなるような整然さで並んでいた。
濱太郎おじさんは蝶の蒐集を趣味としていたのだ。以前、祖母を訪ねてうちへ来た時も、鞄から組み立て式の虫取り網をだして「いま、なんかおったようで」といって、皆を驚かせた。
どこへいくにも網を持っているのだそうだ。どこで、珍しい蝶に会うかわからないからということらしい。
ぬるくなってしまったビールを前にした、おじたちの話は、濱太郎おじさんがおもむろに席をたったことで中断された。
「どげんしたと?」
「いま、蝶の見えたけん」
濱太郎おじさんは、中庭に面した廊下に立った。
「いや、見間違いか」
「はまにいちゃんは、いつも蝶ば追いかけよるなあ」
「ほんとは、夜の蝶も追いかけとっちゃなかね?」
一同が笑う。真ん中のおじの常套冗句だ。
濱太郎おじさんは、おじたちの父親、わたしの祖父の話をした。祖父もまた医者だったので、 自分がどれだけ影響を受けたのかという話をしてくれた。ただその祖父は 軍医として激戦地に赴き、そのまま帰らぬひととなった。一家の主を失ったおじたちは、預金封鎖により一文無しになり、学業そっちのけで働き、祖母を支えた。どれだけ大変だったのだろうと思う。
わたしはそのとき、やっぱり蝶は中庭にやってきていた気がした。
蝶は死者の魂を載せているときいたことがある。ゆらゆらと空間を裂いていく蝶は、どこか異界と通じてるようにみえる。あの時の、蝶の幻と、ぬるいビールと、戦争に分断されてしまった少年時代を、恨みごとを押し殺して懐かしむおじたちの姿を、 夏になるとふっと思い出す。
ひとは美しい思い出を持つ権利がある。だから、思い出したくないことをつきつけるつもりはない。でもだからこそ、無為な哀しい思いをうむようなことに抗いつづけなくてはならない。
きらめく夏はたくさんの犠牲の上にある。
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