2015年4月9日木曜日

野いちごはもうないのです

早稲田松竹でベルイマンの『野いちご』がかかっていたので、あわてて観に行った。
叙情に流されない安定感のある画面の輝きと美しさがベルイマンの魅力。
叙情に流されないといいながらも、奥行きと時空のあいまいさから目眩のように引き起こされる感覚は、ほかの映画にはない独特のもの。
何を語っているのか。大きな問いを投げかけているようで、
何も語ろうとしていない。
この画面から滲み出るような他者(映画)の苦悩は、鑑賞者を引きずり込もうなどという自意識がない。
だから、人生の虚しさが描かれているにもかかわらず、なぜだか暖かいものが残る。
不思議な監督だなあと思う。
おそらくは、その凛とした宗教観によるものだろうとおもうのだけれど。
知らない美しさに出会うことは、なににおいても幸福感を与えてくれる。
野いちごの無垢な存在は、純愛のみずみずしさの象徴のように、苦さに満ちた人生にひとしずくの清涼を授けるも、儚い。

以前、ほんっとうに心が疲弊していて、映画をみることができなかったことがあった。
理由は、目の前であれこれ動くものたちは、実際には「いま」いないから。
乱暴な言い方をすれば、映画を観るということは死んだものを眺めているような感覚だとそのとき思ったのだ。
疲れていた私の心は、生命そのものが放つエネルギーをもとめてた。
あのころ、病んでいたんだなあ。
今はもちろん、映画は命を持ち得ているとおもうし、大好きである。





このところ、打ち合わせ続き。がんばらないと、仕事。
すこしずーつ、すこしずーつ、片付いてます。数週間前の不調が嘘のように。
歩いていれば必ず景色は変わる。だから、生きていなくちゃならないんだなあ。

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