2015年4月13日月曜日

浮き世と戦争の肌質

今日は天気もよく、掃除とか紙の水張りとか、いろいろ予定していたんだけど、『浮き世の画家』カズオ・イシグロを朝からずっと読んでた。

この画家である主人公、小野老人の視点というか、意識といったものは、常にゆらゆらと揺らめいている。というより、揺らめいているのは、主人公の小野をとりまく世界のほうで。そのへんの描きかたのうまさはカズオ・イシグロのすごさなのかなと思った。
このような、バランスで書けるというのは、そうとうなデッサン力なんだなあ。小説のほとんどが、描写で成り立っているのだとすると......。
老画家の小野は極めて常識的な範囲の独善を持ち合わせている。画業の成功から、自尊心は高めであるが、それも、好人物としての範囲内にとどまっている。
では、なぜ、この良心的人物であり才能に恵まれた画家が、師の教えの通りに浮き世を描くことから、日章旗を前にして貧しくも善良な市民が意気揚々と武器を持つシーンを描くようになったのか。

戦争画のことは、ずっと気になっていた。正義感をもって、他愛もなくそれを描いた画家がほとんどだったのだともいえるけれど、ひとは、どこでどう間違うのか。いつも気になっていた。できれば、見極めてみたいというほどに強く興味があった。
驚いたのは、その難問がここではちゃんと描かれていることだった。ここまで、明確に、芸術を愛するものが戦争という過ちに思考からひきずられていく過程をしずかにみせているものを、ほかに知らない(わたしが、知らないだけなのだけど)。

読んで、感情的なものはなにひとつ浮かび上がらないのだけど、小野の師のモリが極めようとするも、戦争に向かう世の中に否定されていく「夜」の美しさが、どこまでもこころに広がっていくのを感じた。たったひとつのモリの言葉がこの小説をしずかに覆いつくしていく。その鮮やかさにただおどろくばかり。

戦争画を検索して、なにかここに添付しようと思ったのだけど、あまりにもその肌質の暗さに、やめた。さらには、戦争讃歌を山田耕作が作曲したり、佐藤春夫が作詞したりしているのをみつけ、暗澹とした気持ちになった。

そして、なににおいても、とにかく肌質というものは正直だとおもった。




 


0 件のコメント:

コメントを投稿