2023年6月28日水曜日

絶望の赤色から

 先日行った世田谷美術館の「麻生三郎展」について、書き留めておこうと思う。

麻生三郎については、いままでにいくつもの作品をみていたはずだったのだけれど、なぜか私にはあまり刺さらなかった。私の眼にはなぜか、スタイリッシュな絵を描く画家にみえていた。おそらく私は、そこに描かれているものの、表層しか見てなかったのだと思う。

 麻生三郎の絵にはじめて、おや。と思ったのは、数年前に 東京国立近代美術館のコレクション展で「赤い空」を観た時だ。描かれたのは1956年、終戦から十年あまり。日本が「もはや戦後ではない」というスローガンとともに、高度成長期をむかえたころだ。物質的な豊かさというハリボテの目標に与えられ、日本中が敗戦という絶望にそろそろ別れを告げようとしていたころ。麻生三郎の「赤い空」には、希望の光がひとつもない。画家は未だ重い空に日々が覆われていることから眼をそらしてはいないことがよくわかる。この人はなんだかすごいな。と、その時思ったのだった。そして、麻生三郎が戦争というものをどう観ていたのか、それを絵を通して確かめたいと思っていたので、世田谷美術館の展覧会はとても楽しみだった。

 展示は、戦後すぐの妻や子供の絵からはじまる。

妻の顔は疲れていて眼には生気がないように思われる。ひきかえ、子供の眼差しには光が宿っている。それは、喜びや幸福感といった光ではなく、怒りのそれである。怒りの静かな焔が、子供の眼に宿っている。その筆致はとても誠実で素直である。画家としての気負いがまるでない。気負いのない絵のよさというものが、やっとこのごろわかってきたような気がしていたので、ああ、やっとこういう絵を理解することができるのだ。と思った。

子供の無垢な魂は大人がひたかくし、なかったことにしようとする悪意を見抜く。愚かな戦争というものに対して、怒りをもっている。怒れる子供の視線は、いまだと、奈良美智につながってたりするだろうか(勝手に繋げてみたい)。

 1950年代の作品は、ひたすらに赤い空に覆われている。60年代にさしかかるころ、強いマゼンダに少し白がまざりこみ、ほんのりと柔らかさが加わる。けれどそれは、安堵や幸福の柔らかさではなく、わたしにはさらに増した虚無感のように見えた。 おそらく世の中は、経済成長とコマーシャリズムで沸き立ち、騒がしかっただろう。そこに虚無をみていた人間が、どれくらいいたのだろう。

麻生三郎の絵は、同じような色、同じような筆致が続くのでなにかしらのルールの上で描かれているようにみえるのだが、こうしてゆっくりと変化していくさまを観ていると、画布の上で、冒険と破戒と、再生が、せわしなく、労を惜しむことなく繰り返されている。まるで生き物だ。

60年代には安保闘争によって亡くなった女学生に捧げた絵が描かれる。やはり絵は赤かったが、はじめて絵のなかに怒りの芯のようなものが現われていた。その後、ベトナム戦争を題材とし、自然な事象としての肉体と絵具の生み出す造形の 構造が、解体と融合を繰り返し、絶望と闇のなかで悶絶しながら再構築されていく。

絶望の赤から、虚無の赤、そして怒りの赤へ。闇と向き合うことをあきらめることはない。

そのさまをみていて、絵を描くことは、社会問題を題材としていても、やはりごく個人的な作業の連続であり、広く理解されたり、愛されたりすることは難しい。ただなによりもこうして、絵と対峙した誰かのなかに深く入り込んでいくものなのだと感じた。

 

以下、麻生三郎の言葉より

「その底に流れているものは、現実のかぎりない美しさ、恐れであり、強く絶えず引っかかるもの、言葉にならないものが存在していて、徹底で対決するしか方法がないので、現実を描くということになる。それは生存そのものだ」

 

 

 

    (写真internet museumより)

 



「溝上幾久子展」@Hasu no hana

ギャラリーHasu no hanaにおける個展が6月30日をもって終了となります。

詳細はこちらです。 

延長を含めると、6月いっぱいいっぱいの展示でした。

お運びいただきまして、ありがとうございました。

とくに『白鶴亮翅』の原画は、新聞連載を楽しみにしていたという方々(なんと毎日切り抜きされていたひとの多いこと。ちょっとびっくりしました。)とお会いできたことは嬉しかったです。

 展示はとても体力がいるので、だんだん少なくなっていますが、やはり実物をみていただけるのは、とても刺激になります。

年内の展示は、10月にwatermarkでのグループ展を予定しています。その他企画中のものもありますので、また、よろしくおねがいします。




2023年3月19日日曜日

生々しい二つの異国

 最近行った展覧会のうち印象的だったものがふたつあった。
 ひとつは千葉市美術館の「亜欧堂田善展」、もうひとつは東京都美術館の「エゴン・シーレ展」。    

亜欧堂田善は、知る人ぞ知る、銅版画の日本の創始者のひとり。 
 日本で はじめて銅版画を制作したことで有名なのは司馬江漢だが、田善はその司馬江漢に弟子入りを断られたにもかかわらず、独学でその技術をものにし、のちに司馬江漢から尊敬の言葉をうけとるまでになる。 
  その技術の高さから、実際には、亜欧堂田善のほうが日本の銅版画家の祖といえるのかもしれない。わたしも銅版画を制作するもののはしくれとして、興味津々の展覧会だった。

  田善には、銅版画をなんとしても作らねばならない理由があった。松平定信からの直接の命令だったのだ。松平定信は、銅版画を芸術としてではなく、藩のための印刷技術として、主に精巧な地図の制作のため、田善に研究開発を託した。 なんらかの経路で手に入れたオランダの銅版画を見た松平定信は、度肝を抜かれ、その技術を手に入れたいと強く思ったのだろう。 亜欧堂田善は、芸術的な憧憬の念から銅版画をはじめたのではなく、藩のために手に入れなければならない異国の技術として研究したのだった。 
 
  展覧会において田善の模写を観ながら、わたしはなにか不思議な違和感のなかにいた。木版画や岩絵の具とちがった、銅版画や油絵特有の空気感のようなもの。たしかにそれはあるのだけど、なにかがやけに生々しい。  
 江戸時代の日本人にとって、異国は憧れより以前にいびつで畏怖すべきものであったに違いない。美意識の介入がないまま模写された版画や油絵は、絵画と呼ぶにはあまりに所在ない。

  いまのわたしたちには、近代以降に育まれた西洋への特別な思いといったものがあるように思う。文化的な憧れだったり、それゆえに生まれてしまった劣等感だったり。けれど、少なくとも、驚嘆はあったとおもうが、異文化へ憧憬の想いが深まるためには、その出会いからもう少し熟成の時間を経なければならない。歴史に裏打ちされた「われわれの美意識」というものがこの世の最良であるとする狭小な視野のなかで、異国の文化は異物として主役である「われわれ」の背景にすぎなかったのだろう。 ヨーロッパ人からすれば、未知の、あるいは未開の国のものたちが、自国の美意識に誇りを持っているなどと思いも寄らないのかもしれないが、琳派、狩野派や浮世絵があれだけ研ぎすまされた美意識のもとに作られているのに対して、司馬江漢にしろ田善にしろ、技術がないからだけとはいいきれない、西洋文化に対するわからなさというものが、あのつたない、美しさとはほど遠い模写にあらわれているように思う。もちろん、技術的なものもあるとはおもうが、後の渡仏した画家たちの堂々としたさまにくらべると、あまりにも不安定である。
 その生々しさを私は面白いと感じた。日本の美術は主に伝承によって磨き上げられたものである。だからそこに個人の息づかいのようなものみつけることは難しい。けれど、形式張った美意識からはずれたあの模写には、まるで田善が目の前で画面に立ち向かって仕事をしているかのような時間を超えた息づかいが残っている。
ただわたしは、日本の、とか、国の、とか、そういった曖昧な共通意識についての知識も興味もあまりないので、そのころの人々が本当にどうおもっていたのかは、わからない。わたしがいいたいのは、かえって未消化のまま模された異国の絵が、観念的にではなく、感覚と感覚だけで受け渡されているのを目の当たりにした、愉快なこそばゆさについてであった。

 

 もうひとつの「生々しい異国」とは、エゴン・シーレからみた日本だ。
エゴン・シーレ展で、ある絵の前で思わず立ち止まる。先日の亜欧堂田善の模写を思い出したのだ。それが、この絵。美術館のキャプションでは、「クリムトの絵を模して」というようなことがかいてあったけれど、あきらかに日本の屏風絵を模したものだとおもう。金箔が貼られたためにできる格子状の模様を、筆致でなんとかあらわそうとしている。真ん中の植物も随分、デフォルメされているが、木を削ぎ落としたような表現もまた、東洋画の対象物をきゅっとフラットに描く表現に近づいている。おそらくエゴン・シーレは、クリムトの絵をみたのではなく、直接、日本の絵の写真をみたのだろう。ただ、ゴッホやマネが明らかにジャポニズムを意識して積極的に模していた絵よりも、どこか懐疑的で、さぐりながら、異物を自分のものに翻訳しようとしている。まだ咀嚼しきれず未消化のまま画布にあらわれた、やはりこれも生々しい異国なのだった。



 



2023年1月28日土曜日

理想の髑髏をさがして

 なぜか、年明けから、ちょっと髑髏を描いていた。
きっかけは些細なことだったが、なんとなく描いてみたものの、どうしても「メキシコ」になってしまう。
あのどこか、とぼけた、まったく怖くなくて親しみのあるガイコツになってしまうのだった。石膏像を描くと自分の顔に似てしまうというのがあったけど、ガイコツもしかり。 いや、どちらかというとガイコツは、誰が描いてもとぼけた感じにはなるのではないか。ガイコツの存在自体がそのような生者をあざけるような雰囲気をすでに纏ってしまっている。なんか、笑われているみたいな気がする。でもまあいっか、相手は死者で、しかも出来上がっているやつ、つまり骸骨なんだから。

理想の髑髏像はどういうものだ。と、ふと考える。
わたしとしてはいずれヴァニタスのような世界があらわれてほしい、などと思ったけれど、虚無やメメントモリとはほど遠い。ただ心からそれほどの、重さを求めているわけでもない。あざけ笑う骸骨も嫌いではない。

と、ぼんやり思っていたら、先日行った智積院の名宝展において、出会ってしまった。
理想の髑髏に。

それは大威徳明王図において、明王の首飾りと冠を飾っている髑髏たちだった。
とぼけているわけでもないが、したり顔(髑髏にそんな表情があるとして)に憂いを帯びているわけでもない。そのニュートラルな骸骨ぶりが、ずずっと胸にささった。

あとでネットでじっくり見よう。と思ったのだが、いくらぐぐっても、あの時展示でみた大威徳明王図は出てこない。
簡単に見ることができないというのも、理想として申し分ない。といえなくもない。

ちなみに、この図はそのとき響いたものとはまた違うのだ。
もう会えないのかしら。あのどくろたちに。












2023年1月12日木曜日

2023年もよろしくお願いいたします

 


 本年もどうぞよろしくお願いします。

 今年は版画以外の技法をつかった絵も描いていくことになりそうです。

  個展は5月〜6月 ごろに、挿絵の原画などを中心に開催予定です。

 近くなりましたらまたご案内します。

 週末の絵葉書屋はあいかわらずの不定期openですが、引き続きどうぞよろしくお願いします。 

1月は21日(土)、28日(土)があいております。

2022年11月8日火曜日

草活版印刷者

 もう何年も前から、活版印刷をかじっていて、少ない活字で作品をつくったりしていたのだけど、なんとなく自分がちゃんとした活版印刷の技術や設備を持っていないので、それで「活版印刷やってますよ」みたいなことは言えないなと、思っていた。
 印刷技術をもった方々の仕事が薄紙一枚のスペースの調整を行うようなミクロの世界だったので、自分はやるべきじゃないという気持ちになってしまっていた。

 けれどふと、野球だって....プロのように豪速球が投げられるわけじゃないけど、野球を楽しみたければ草野球という世界があるように、活版印刷を好きに楽しんでもいいのでは....?と思った。実際、わたしが使っているADANAという活版印刷機は、個人で楽しむためのものなのだ。いわば昔の家庭用プリンター。楽しくつかいこなしていこう。

 
 もし、印刷してほしい言葉のリクエストがありましたら、下記にメッセージを送ってください。詩片でも、グリーティングでも。固有名詞以外でしたら。



 

2022年9月23日金曜日

ヤンソン・サンドウィッチ

トーベ・ヤンソン・コレクションの再読。ヤンソンさんが続くと、わたしは結構メンタルきつくなっていくので、間にいろいろはさみむのだ。ヤンソン・サンドイッチ方式で読み進める..。

『誠実な詐欺師』は最初に読んだときと印象が違っていた。最初に読んだときは、ボートが少しずつできあがっていくところに、どこかわくわくするような感情を抱いていた。湖の光や、マッツの無垢な心など。どちらかというと穏やかな読後感だったのだ。

 再読して、カトリの目的のために徹底的に策略を練り、実行を遂行する隙のない性格と、アンナのおおらかなのか無神経なのかわからない隙だらけの性格、そのぶつかりあいは、結構、きつい話でもあった。人間関係のしんどさはいつもトーベ・ヤンソンの世界にはむきだしに現れる。あのムーミンの可愛らしさとは、ほど遠い。(ほんとうはムーミン谷だってそうなのに...。世界中の読者の偏見にふりまわされいらだつアンナは、どこかヤンソンの投影でもあるのだろうか)

 けれど、ふっと心がほぐれる瞬間がある。
 たとえば、カトリが弟のマッツに内緒でボートをボート職人に注文したとき、彼はまわりにそのことを内緒にすべく嘘をつく。そのときの、
「この嘘は、一目おく人間に贈りものをするのと同じくらいごく自然に、口をついたのだった」
 という表現。村の人々は、カトリを頼りつつも、アンナに対する詐欺まがいのふるまいに、冷たい視線を向けていて、彼もそのひとりでもあったのに、カトリの弟に対する愛情を知って、心がほぐれた様子がこの一文でわかる。なんだかほっとした。
 わたしはいつのまにか、カトリに心を寄り添わせようとしている。普通に考えたら、ちっとも好きになれない女の子のタイプのはずなのに。しかも犯罪まがいのことをしているのに。

 ふとなぜか、映画『万引き家族』を思い出した。どこにも似たところはないのだけど、あの映画の、あの家族は、世間の目から見れば、犯罪に手を染めたとんでもないやつら。なのだけど、それぞれの心のうちに隠し持つ、競争社会にはとうてい打ち勝てない弱者が同じ弱者にむける共感と優しさのようなもの。や、なんで、たくさん持っているひとと、持ってないひとがいて、持っているひとはそれを有効に使えもしないのに、使えるひとが勝手にそれをしようとすると、避難されるのだろう。そもそも、お金や経済システムは間違っているのでは?とまで思わせてしまうなにか。それがこの物語にもあった。

 カトリの犬もまた何かを象徴していた。従順にさせることで、犬が生きやすくさせているというカトリの気持ちを逆なでするように、アンナが犬に好きに遊ぶことを教えてしまった。そのため、犬は混乱し、野性のもののように遠吠えをするようになり、やがて森にかえってしまう。再読して、そこに物語の奥行きと深さを感じた。野性を愛し、そこに帰りたかったのは、本当はカトリだったのかもしれない。現代の生きにくい世界と徹底的に組みしようとする誠実なカトリだからこそ。などと、思ってしまった。







 
 


 



 

2022年8月25日木曜日

朝日新聞連載小説『白鶴亮翅』多和田葉子著が終了しました

 この半年間、挿画を担当させていただいた、朝日新聞の連載小説『白鶴亮翅』多和田葉子著は8月14日に最終話をむかえ、終了しました。
 はじめて新聞小説を毎日楽しみに読んでいる。という声もいただいたり、多和田葉子さんの、小説の魅力をあらためて感じながら、挿絵を描かせていただきました。

 半年というのは長いようで短くあっという間ではありました。版画という技法をつかって毎日の挿絵を描くのは、無謀ではありましたが、今思えば、版画でやってみてよかったと思います。内容によって技法を変えているので、雰囲気のばらけた感じがあったかと思います。自分ではいいとおもっていたのですが、果たして...

 多和田さんの描く女性の日常は、不思議な奥ゆきを度々見せてくれて、くすっとしたり、そうそう、とうなずいたり、難しい問題について考え込んでしまったり...とてもいそがしく、それは、とても楽しい忙しさでした。挿絵となると、描くのが難しいものもありましたが、楽しんでいただけたのだったら嬉しいです。多和田さんには、ベルリンから、実際の太極拳教室の様子や蔵書の写真など送っていただいたり、ファンとしてはこのうえない嬉しい交流がありました。そして、実在の場所や史実がある場合、ほんのちょっとしたカットを描くにも、間違っていはいけないので慎重にせねばならず、そういう経験はあまりしてこなかったので、とても新鮮でした。

 挿絵は、そのうち、全回分をウエブなどで公開できたらとおもいます。
 これからも多和田文学から目が離せないですし(『太陽諸島』ももうそろそろでしょうか)、そういう日々の楽しみがあることが、生きていく理由のように思います。

 最後のシーンは雪のベルリンでした。
 猛暑のなか、小説からの涼やかな贈り物のようでした。




 

2022年8月5日金曜日

ice cream castles

先日ネットで映画『Coda』を観た。青春映画、好きなのです。。  

最後に主人公が歌うジョニ・ミッチェルの『both sides now』 がなんだか久しぶりに心に響いて、それからよく聴いている。ジョニの声が好き。
 例えば、つらいときにはいつでも私を呼んでよ、と歌うキャロル・キングの優しさも好きだけど、この歌の凛とした哲学的世界は、なんだかいまの自分にとても沁みてくる。 なにかに頼ろうとやたら触手をのばして喘いでいるのは、多分、コミュニケーションツールが増えたせいなのかもしれない。 

 この歌詞のなかのicecream catsleという言葉が好き。 

同じように、可愛い言い回しで好きなのが、across the universの最初の 「言葉たちは止まない雨のように紙コップへこぼれおち...」というところ。グラスでもマグカップでもなくチープな紙コップから...universは繋がっている....。  

いま熱波で熱い日々。icecream catsleがどこかにあるなら、しばらく籠城したいと思う。 

 Rows and floes of angel hair 
And ice cream castles in the air 
And feather canyons everywhere 
I've looked at clouds that way
 But now they only block the sun 
They rain and snow on everyone 
So many things I would have done 
But clouds got in my way 

 I've looked at clouds from both sides now 
From up and down 
And still somehow 
It's cloud's illusions
 I recall I really don't know clouds at all


2022年5月23日月曜日

ちかくてとおいひと

自分にとって、最も近くて、最も遠いひとは、家族なのだろうか。
 昨日、認知症が進んだ母が老人介護施設に入所した。 

 徘徊がはじまってからでは、遅いのではということになったのと、 ラウンジから葉山の海を一望できる感じの良い施設に丁度空きがみつかったことと、 いろいろな偶然がかさなり、姉と決断した。

 が、やはり、昨日、だれもいなくなった実家に立ち寄った時には、 さびしく、哀しかった。 もちろん、亡くなった訳ではないのだけど、遠くに行ってしまったのだな。と思った。 

この数ヶ月で、母はときおり幼児化した様子をみせた。 仕事場をなかなか離れることができないわたしに、電話でこんこんと不安をうったえ、 こちらも渾身でなだめ、 電話をきって10分後にまた同じ内容の電話が.... ということが一日中というなかで、なんとか仕事をすすめていた。出来るだけ、泊まりに行ったりもしたが、次の日には行ったことも覚えていなかった。親子だから構わないのだけど、いろいろ心配ごとは大きくなっていった。 存分にそばにいてあげられない自分の状況にもいらだった。

いまなんだか、ぼんやりしてしまって、映画をみてしまった。 『浅田家!』という、写真家の浅田政志さんの実話をもとに作られた映画。 なにかと泣けてしまって、とてもいい映画だった。 家族っていいな。という思いとともに、家族は儚い。と思った。 

ちかくてとおくてはかない。だからいとおしく、どこかこそばゆいのか。

 あるとき、母が電話をかけてきたのでとると「かずこちゃんよ!うふふ」 という声がした。まるで、友達みたいで。 きっとこのまま、認知症がすすむと、わたしが自分の娘であることもわすれて 「お友達になってね」とか、いいそうだ。 哀しいけど、それでもいいか、と思った。また、「はじめまして」から家族になろう。

2022年2月9日水曜日

ある日の保土ヶ谷体験

 
 
日々のくらしのなかで、なんでもないことなのに、いつまでも印象が薄れない体験というものがいくつかあって、そのなかのひとつに「保土ヶ谷体験」と名付けてみた。
 
数年前から、北鎌倉に小さなアトリエを構えていて、版画以外の作業をできるようにしている。使い勝手がいいとは言いがたいのだけど、そこへ行くことは、少し日常とは離れた時空を得ることになり精神衛生上とてもありがたい。自宅からおよそ30分、クリーム色と紺色のツートンという地味ながらも鉄のかたまりらしい重厚さと品のようなものを纏った横須賀線にゆられていく。数時間、wifiもなく、誰もいないアトリエで作業をして、静かにまた電車にのって、帰る。  横須賀線はJRだが、家のある私鉄沿線沿いとはややちがった趣がある。野性味というのか。だから、停車駅にも野性味がある、と、私は勝手に思っている。北鎌倉から、大船、戸塚、東戸塚、保土ヶ谷、横浜と停車するとき、わたしは頭の中で、それぞれの駅にまつわる思い出というのか、記憶を、毎回毎回、飽きもせず、呼び覚ましては確認している。そうでないと、野性味のある薮のなかに途中下車してそのまま迷子にでもなってしまいそうだからだ。  それぞれの駅には、それぞれの記憶がある。が、ただ、保土ヶ谷にだけ、なんの記憶もない。記憶のないどころか、保土ヶ谷っていったいなんなのだ。という感情さえ抱いていたりする(失礼な話だとはおもいつつ)。戸塚にも横浜にもなにかしらの記憶や思い出、あるいは、その街に対するイメージとそれらから想起される感情のようなものがある。豊かすぎるほどにわき上がってくる。ところが、保土ヶ谷にはまったくそれがなかったのだ。保土ヶ谷に停車する度に、ただ、ああ、もう横浜なんだな。と、思うだけだった。  ある日のこと。わたしは、買ったばかりの多和田葉子さんの新刊『星に仄めかされて』を、横須賀線のなかで読んでいた。わたしが、多和田作品ですごく好きなのは、言い回しや視点が、息つく暇もないほど、とめどなく面白いこと。頭の中のいつもは閉じている部分が、天体観測所の望遠鏡が出るとこみたいに、ぱああああっと、開いていく心地がするところだ。  その時も、わくわくしながら読書していた私は、どこかの駅に停車したことを察してなんとなく顔をあげた。すると目の前に「保土ヶ谷」という駅名看板が現れ、さらには、その「保土ヶ谷」という文字がばあっと輝いていたのである。その時私は、ああ、そうだ。保土ヶ谷ってものすごく面白いところ、夢の国だったじゃない。おお、素晴らしき地、それは保土ヶ谷。と、思ったのだ。 ほんとにそう思った。 何でそう思ったのか、未だにわからない。その時、きらきらしてみえた保土ヶ谷はなんだったんだろう。 今も思い出しては不思議である。おそらく、読書によって開かれた意識から派生した感覚なのだろうけど、なぜ、それが保土ヶ谷にのっかったのか。 ちょっと思ったのは、小林秀雄の『モーツアルト』だ。でもそれとも違う。 いずれにしろ、その日からわたしのなかで保土ヶ谷は魅惑の未踏の街となった。

2022年1月23日日曜日

2022年2月1日より朝日新聞連載小説の挿絵を担当します。

2022年2月1日より朝日新聞連載小説『白鶴亮翅』多和田葉子・作の挿絵を担当させていただきます。 ベルリンに暮らす女性の日常が描かれます。 くすっにやっふむふむとする場面も多いので、絵でもにやっと...あわせてにやにやっとさせることができたらと思います。 多和田葉子さんとは昨年『オオカミ県』という絵本を出版いたしました。その流れでのオファーかとおもいますが、 『オオカミ県』とはまた違った世界なので、今度は腐食銅版は少しと、ペーパードライポイントと着彩を主な技法として制作します。 銅版画よりやや軽やかで、色数も多くなるかとおもいます。 誌面ではモノクロだったりカラーだったりですが、デジタルですと毎回カラーでご覧頂けます。 半年間、どうぞよろしくお願いします。

2021年9月24日金曜日

「青春と読書」連載『動物哲学童話』

「青春と読書」(集英社)に連載中のドリアン助川さん著『動物哲学童話』10月号の動物は、「くじら」でした。挿絵を担当させていただいてから、はやいものでもう第7話です。動物と哲学と童話、かけ離れているようでいて、日本の昔話には一体となった物語があり、ひとと動物の間にはなにかあるようにも思えます。 この冊子は入手にちょっとした手間が必要なので、まとまるまでとおもって、あまりUPしていなかったのですが、先日、「くじらびと」という映画を観て、あらためてくじらの不思議さと人間との関わりの深さを感じたので。このおはなしは、ぜひ、読んでいただきたく....。 くじらのお母さんの話ですが、挿絵のくじらは子どもなので、そのうち大きなお母さんのほうの絵も描いてみたい。と思っています。

2021年9月15日水曜日

群像10月号

群像10月号に、野崎歓氏による「多和田葉子と森の兄弟たちー『オオカミ県』をめぐって」という批評文が掲載されています。絵本を中心に、わたしの絵についても丁寧にふれていただいています。
 
昨年、フランスで刊行された『out of sight』多和田さんの詩と写真の本についてや、これまでの多和田さんの描いてきた動物たちについて語られています。「俺」は、南下してきた狼だったのか...
 
「ジャック・ロンドン的といってもいい題材を、政治批判に直結させた剣呑な絵本なのだ。」
(本文より)
 
 
 


2021年8月8日日曜日

雑誌hanako9月号とコトゴトブックスさん

『オオカミ県』についてのお知らせです。

 その1

雑誌hanako9月号にて、「同じ釜の本をくらう」(話題の一冊について二人がクロスレビュー)というコーナーで、作家の倉数茂さんと、版画家のタダジュンさんが『オオカミ県』について書いてくださいました。Twitterで知ってびっくり。タダジュンさんは、知り合いでもありますが、おなじ銅版画の作家さんに素敵な感想いただけて励みになります。



その2

コトゴトブックスという新しい本屋さんがうまれました。
作家と企画して本を売っていくというスタイルだそうです。

 立ち上げ企画として、絵本『オオカミ県』朗読+トーク動画を扱っていただいています。

ベルリンの多和田葉子さんによる絵本の朗読+zoomトーク(多和田さんと不肖溝上)の一時間あまりの動画が、本とセットあるいは単独で、ご購入いただけます。よろしくお願いします。

ほかにもわくわくのラインナップです。

 

【COTOGOTOBOOKS】

https://cotogotobooks.stores.jp/





2021年7月10日土曜日

「版は物語る」展@文房堂ギャラリー7月11日(日)〜17日(土)

 「版は物語る」展@文房堂ギャラリー7月11日(日)〜17日(土) 凸による版の競演です。

 普段凹版銅版画をしているわたしにとっては、新しい試みで、 とにかく、どうアプローチしてもうまくいかなかったのです...ただ、この方向でもう少しやってみたい。という技法とぎりぎりに出会ったので、ほんの...その兆し...をご覧頂くということになりました。

 出品作家は素晴らしい方々ばかり...楽しいものになると思います。よろしくお願いします。 
「版は物語る」 文房堂ギャラリー 
7月11日(日)〜17日(土) 10:00〜18:30 
(初日11日のみ15:00よりオープン最終日は17:00まで) 
参加作家
生嶋順理 岩切裕子 江口潤子 柄澤齊 田中彰 常田泰由 中村菜都子 
林千絵 古谷愽子 戸次祥子 三井田盛一郎 溝上幾久子

東京都千代田区神田神保町1-21-1 文房堂ビル4F 03-5282-7941 (会期中のみ会場直通) www.bumpodo.co.jp 

*一部作品は7月24日(土)〜8月7(日)の期間限定で、Watermark arts & WATERMARK arts & craftsのオンラインショップでも紹介されます。

2021年6月29日火曜日

週末の絵葉書屋のwebpage

 週末の絵葉書屋のページをつくりました。当ブログページ右上に、お知らせリンクにはっております。 https://www.icucomizo.com/about-4

open日情報など、最新のものをごらんいただけます。

よろしくお願いします。





2021年5月29日土曜日

週末の絵葉書屋@北鎌倉・六月の営業日

  

<週末の絵葉書屋>では、opendayに毎日「今日の小鳥」を展示しています。
5月28日の小鳥です。



真夏と真冬以外の、毎週土曜日と金曜か日曜、週二日の営業となります。(土曜日以外は変動がありますのでお気をつけください)

6月の営業予定日 
6月5日(土)6日(日)
  11日(金)12日(土)
  19日(土)20日(日)
  25日(金)26日(土)

(曜日に変動がありますのでお気をつけ下さい)。13:00-18:00

道順>

①北鎌倉駅下りホーム臨時改札口より

②線路沿いを大船方面へ50mほどススム
③右側に半開きの白い鉄門があるので入ル
④外階段の狭いスキマをススム
⑤椅子に看板が
⑥右手をみると掘ったて小屋がアリマス...そこ☞です


住所:鎌倉市山ノ内527-1-102裏の小屋











2021年5月21日金曜日

幾文堂プレス《週末の絵葉書屋》@北鎌倉の道順です

 北鎌倉駅からすぐのところに、小さな小屋を借りています。

銅版画ではなく、活版印刷や製本をするために借りているのですが、このたび週末だけのカードショップを開くことにしました。

真夏と真冬以外の、毎週土曜日と金曜か日曜、週二日の営業となります。(土曜日以外は変動がありますのでお気をつけください)


道順>

①北鎌倉駅下りホーム臨時改札口より

②線路沿いを大船方面へ50mほどススム
③右側に半開きの白い鉄門があるので入ル
④外階段の狭いスキマをススム
⑤椅子に看板が
⑥右手をみると掘ったて小屋がアリマス...そこ☞です


住所:鎌倉市山ノ内527-1-102裏の小屋












2021年4月13日火曜日

絵本刊行できました。

4月10日、絵本『オオカミ県』(多和田葉子・文、溝上幾久子・画、論創社刊)が刊行されました。先駆け原画展をしていましたので、なんだか時間が前後しているような、妙な感覚ではあります。原画展は最初静かにはじまりましたが、日を追うごとに、お客様も増えていき、最後の週末には、開場を待っていただくほどになりました。多くの励ましと、貴重な感想もいただきました。ありがとうございました。
多和田葉子さんの、スパッと小気味よいアイロニカルな視点に、絵がうまくからんでいるのか、最後まで確信ないままでした。
でもそこは、物語が個々にもたらす自由なイマジネーションの世界には到底叶わないと観念しして仕上げました。この絵本のメッセージが伝わることがとにかく大事だと思うのです。
多和田さんの文学は、批判精神とユーモアが同居しているところに魅力があると思っています。そしてその根底にある、優しさという言葉でいいのかわからない、憂いにも似た、どこかひんやりとした場所。とても居心地の良い、孤独感を包容してくれるような空間があるように思います。そこはやっぱり、言葉でしか導けない空間なのです....。

チームでの本づくりというのも、わたしにとっては初めてのことでした。勘違い、行き違い、意見のぶつかりなども経てますが、なによりふと気がつけば、編集者さんとデザイナーさんに力強く引っ張っていただいていました。ですが、さみしいことに、編集者さんはこの本を最後に退職されたので、なにか、わたしはぽつんと、取り残されたような気持ちです。
でも....歩みを、続けなくてはなりません。
手に取って、もしなにか感じるものがありましたら、レビューやメンションなど頂けたらと思っています。

オオカミ県の住人の問題は、ほんの些細な「偏見」が、いかに馬鹿馬鹿しいかという、差別に喘ぐすべてのひとの問題であり、知らず知らず踊らされ、労働力やイマジネーションを搾取されている、ほとんどのひとたち、私たちの問題でもあるのです。

メッセージは直球すぎるため、絵本としてはかなりの変化球です。
どうか受け止めていただけますように。ばしっと。