2015年5月4日月曜日

空気を読まないわたしたち

作家が空気を読み始めたらおしまいだ。と、思う。
けれど、「なんかおもしろいことはねえがああ」と、渉猟することは、あるとおもう。
社会の中での文化には、流行というものがあるから。
いっぽうで、世の中の表層的な流行と無縁のものをひとは欲したりもする。

社会が多大なダメージを受けて、それによって、表現者たちがざわめく。
あるものは嘆きを、あるものは怒りを、あるものは祈りを、そこに込める。
わたしはどういうことが起きても、まずははげましを込めたい。

嘆きも祈りもはげましも、ひとの心を着地点としている。ひとの心に届くことができて、
はじめて、再生の芽吹きを待つ。

ただ、怒りは、その温度のままひとの心を着地点とすることができない。
だからこそなのか、怒りを持続していこうとする、作家もいる。

まわりは「もうそのことはいいじゃないか」って思っているかもしれない。
でも、怒りに、はやりすたりがあっていいのだろうか。と、思う。

おだやかな表現も、心地いいのだけれど、
まるで、空気を読むことなく、怒りをずっと持続していこうとすることも、
また、必要だと思う。いろんなものがなくては。
なぜならそれは、具体的な解決を模索するため深い考察をうながし、人為的な出口を見いだす力になる。
怒りの先に展開される現実がなんなのか、まだ、よくわからないけれども、
ひとが考えるのをやめたとしても、ずっと考え続けることが出来るのが、表現者の体力なのだろうとおもう。
いま、あるひとと「その先」を視覚化する試みをはじめている。

空気など、絶対に読んではいけない。

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