2017年2月19日日曜日

装飾からうまれたかもしれない文字について

 コロボックルの佐藤さとるさんが亡くなって、うさこちゃんのディックブルーナさんが亡くなった。

 なんだか小さい頃に心をあたためてもらった方々が立て続けに亡くなってしまった。
 わたしは、本気でコロボックルがいるとおもっていた子供のひとり。というより、お願いだからいてほしい。と祈るような気持ちだったのかも。子供にもいろいろ辛いことがあるもの。小さいコロボックル達は、子供たちのこころに寄り添うなにかだったんだと思う。

 先日、ふと「装飾」的なものについてある考えが浮かんだ。
 文字というのは、意味より先に装飾から生まれたのではないか。という考え。
 けれど、調べてみると、文字は記録や複数への伝達、とくに、国の統治を目的として発明されたとするのが、自然であるようだ。
 では、もしかしたら、文字には大きく二種類あって、統治のための文字と、統治するための社会システム外でのコミュニケーションを可能にするための文字があるのかもしれない。

 私たちが現在使っているのは統治のための文字で、もうひとつの文字は装飾そのものもあるいはそこからうまれ、歌や民族内の伝承のためとして、生活のなかにそっと埋め込まれている文字(的なもの)
 たとえば、伝承すべき物語が織り込まれているタペストリーとか、文字をもたないアイヌ民族の衣服の装飾パターンとか(これは魔除けであるらしいけれど)。

 もちろん、生まれた理由に関係なく、現在つかわれている文字は人間によってことばの自由な表現のための役割をあたえられている。けれど、さらに自由なコミュニケーション力をもつみえない文字が生活に溶け込み、地模様としていまも存在しているのだとしたら、面白いと思う。

 そこで、ふと、アーツアンドクラフツ運動を提唱したウィリアム・モリスのことが気になった。案の定...というべきか、モリスは、ひどく社会主義に傾倒し、社会運動も活発におこなっていたらしい。華やかな装飾のなかには、近代の資本システムへの問いかけが盛り込まれ、はっきりとした形をもった文字のかわりに、愛らしい小鳥や草花とともにその輪郭こそ曖昧にしたまま、ひとの生活に流布されていったのだろうか。



0 件のコメント:

コメントを投稿