気のせいでなければ、震災のあと、いわゆるディストピアを描いた創作というものが、ずいぶん世に出回ったように思う。
それだけ、あの震災はわたしたち震撼させ、それまでの安定した地盤の上にいきていることを想定して築かれていたにすぎない哲学や思想を根底からゆさぶり、いったいなにをどう信じて生きていけばよいのか、と、わたしたちを混乱のなかに投げ出してしまった。それでも、つかむべき光を見いだすためには、真の闇の底を知らなければならなかったということだろうか。多くの作家が、その底の深度を確かめるように、想像力を駆使した。その結果、多くの想像力がこの世の滅亡とは、どんなものかを、つきつけてきたのだ。
先日、やや不定期に開催している友人達との読書会にて川上弘美の『大きな鳥にさらわれないよう』という小説を読んだ。遠い未来、人類が滅亡してから何千年もたってからの世界を描いた作品だ。人類の滅亡?全人類が最もおびえているその状況であるはずなのに、どこか柔らかな光につつまれたような世界が描かれていた。
人の世の全てに平穏が行き渡ることはとても難しい。
日々の瑣末な時間のなかに、断片としてしか、平穏は存在しない。そのことを私たちは、知っている。ユートピアもまた、ディストピアの細部にしか存在しないのかもしれない。ただ、そのほんの小さな平穏の領域を無理矢理にでも押し広げたい。
だから、たとえば胸が焼けつくような甘ったるい、ユートピアを描いてみたいとか思ったりする。ずっとずっと先でもいいから、平穏がすべてのひとを包みこむさまを思い描きながら。
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