先日行った世田谷美術館の「麻生三郎展」について、書き留めておこうと思う。
麻生三郎については、いままでにいくつもの作品をみていたはずだったのだけれど、なぜか私にはあまり刺さらなかった。私の眼にはなぜか、スタイリッシュな絵を描く画家にみえていた。おそらく私は、そこに描かれているものの、表層しか見てなかったのだと思う。
麻生三郎の絵にはじめて、おや。と思ったのは、数年前に 東京国立近代美術館のコレクション展で「赤い空」を観た時だ。描かれたのは1956年、終戦から十年あまり。日本が「もはや戦後ではない」というスローガンとともに、高度成長期をむかえたころだ。物質的な豊かさというハリボテの目標に与えられ、日本中が敗戦という絶望にそろそろ別れを告げようとしていたころ。麻生三郎の「赤い空」には、希望の光がひとつもない。画家は未だ重い空に日々が覆われていることから眼をそらしてはいないことがよくわかる。この人はなんだかすごいな。と、その時思ったのだった。そして、麻生三郎が戦争というものをどう観ていたのか、それを絵を通して確かめたいと思っていたので、世田谷美術館の展覧会はとても楽しみだった。
展示は、戦後すぐの妻や子供の絵からはじまる。
妻の顔は疲れていて眼には生気がないように思われる。ひきかえ、子供の眼差しには光が宿っている。それは、喜びや幸福感といった光ではなく、怒りのそれである。怒りの静かな焔が、子供の眼に宿っている。その筆致はとても誠実で素直である。画家としての気負いがまるでない。気負いのない絵のよさというものが、やっとこのごろわかってきたような気がしていたので、ああ、やっとこういう絵を理解することができるのだ。と思った。
子供の無垢な魂は大人がひたかくし、なかったことにしようとする悪意を見抜く。愚かな戦争というものに対して、怒りをもっている。怒れる子供の視線は、いまだと、奈良美智につながってたりするだろうか(勝手に繋げてみたい)。
1950年代の作品は、ひたすらに赤い空に覆われている。60年代にさしかかるころ、強いマゼンダに少し白がまざりこみ、ほんのりと柔らかさが加わる。けれどそれは、安堵や幸福の柔らかさではなく、わたしにはさらに増した虚無感のように見えた。 おそらく世の中は、経済成長とコマーシャリズムで沸き立ち、騒がしかっただろう。そこに虚無をみていた人間が、どれくらいいたのだろう。
麻生三郎の絵は、同じような色、同じような筆致が続くのでなにかしらのルールの上で描かれているようにみえるのだが、こうしてゆっくりと変化していくさまを観ていると、画布の上で、冒険と破戒と、再生が、せわしなく、労を惜しむことなく繰り返されている。まるで生き物だ。
60年代には安保闘争によって亡くなった女学生に捧げた絵が描かれる。やはり絵は赤かったが、はじめて絵のなかに怒りの芯のようなものが現われていた。その後、ベトナム戦争を題材とし、自然な事象としての肉体と絵具の生み出す造形の 構造が、解体と融合を繰り返し、絶望と闇のなかで悶絶しながら再構築されていく。
絶望の赤から、虚無の赤、そして怒りの赤へ。闇と向き合うことをあきらめることはない。
そのさまをみていて、絵を描くことは、社会問題を題材としていても、やはりごく個人的な作業の連続であり、広く理解されたり、愛されたりすることは難しい。ただなによりもこうして、絵と対峙した誰かのなかに深く入り込んでいくものなのだと感じた。
以下、麻生三郎の言葉より
「その底に流れているものは、現実のかぎりない美しさ、恐れであり、強く絶えず引っかかるもの、言葉にならないものが存在していて、徹底で対決するしか方法がないので、現実を描くということになる。それは生存そのものだ」
(写真internet museumより)