2019年9月19日木曜日

秋の気配

エアコンのないアトリエにやっと秋風が吹いてきました。
本格的な冬になったら、火鉢を据えたいと思っています。楽しみです。


個展が近づいて参りました。そんななか、ラスト一点ではないのですが、物語の最終頁にくる絵の下図を練っています。そこには、ひとつ、獣の目が描かれるのですが、ふとそれが、靉光の『目のある風景』を思い出させました。

まさに混沌のなかにあるひとつの目。それがなにを語っているのか、いまだ議論はつきないようですが。あらためてその絵をみていると、怒りと哀しみを受け取らずにはおれません。しかし、強い美しい光をもった眼差しは、希望のまなざしでもあります。若かりし頃から、何度も近代美術館の常設で目にした大好きな絵です。





2019年9月3日火曜日

tiny art collection @MOTOYA book gallery

tiny art collection

初台のMOTOYA book gallery [tiny art collection]に参加します。

2019 / 9 / 4 wed. ~ 9 / 22 sun.  ※月曜・火曜 お休み 13:00~20:00  9/22 sun. は17:00まで 入場は閉館の30分前まで


よろしくお願いします。



2019年8月6日火曜日

「幾文堂」北鎌倉分室の 開設

久しぶりの投稿です。
6月より、アトリエ分室として、タブローの制作を、北鎌倉のあるお寺の所有する小屋にてはじめることとなりました。

しばらくは、制作のみとなりますが、来年春先くらいから、版画作家のカード作品などをあつめた展示企画や、印刷局としての活動も行っていきたいと思っています。どうぞよろしくおねがいします。





2019年4月2日火曜日

天使のこころ

はてさて何年ぶりでしょうか....。
早稲田松竹で、ヴィム・ヴェンダースの『ベルリン天使の詩(wings of desire)』を観ました。

設定がわかりにくい映画です。
天使たちはなぜベルリンにいるのか...。そして、なぜただ黙って人間によりそっているのか....。

それは、略奪と殺戮を繰り返す愚かな人間に愛想を尽かした神に対して、人間の味方をし、擁護したためです。彼らはそのことで神の怒りにふれ、天使の能力を奪われ、その時、地上で最も悲惨な土地であったベルリンに幽閉されてしまっているのです。彼らは、ただ、人間のこころの声を聞き、それを記録していくことしか出来ません。
彼らはベンヤミンの思想に現れる、がれきの前に立つ歴史の天使(認識者)たちです。

映画には、いろんな仕掛けがあるので、古い映画でも、観るたび発見があります。
今回、長い時を経て、あらたに発見したこと。
天使たちは、なぜ、人間を擁護したのかということへの答え。
これは、わたしの憶測ですが、
地球が生まれたときから長い静寂を過ごしてきた彼らの前に現れ、言葉を生み出し、語りかけてくれたのが、人間だったから...。
そのことに気がついて、なんだかジンとしました。

この映画が作られた二年後に、ベルリンの壁は崩壊したのですよね。
歴史の天使はいまは、何を見ているのでしょうか。

「新しい天使」と題されているクレーの絵がある。それにはひとりの天使が描かれており 、天使は、かれが凝視している何ものかから、いまにも遠ざかろうとしているところのようにも見える。かれの目は大きく見ひらかれていて、口はひらき、翼は拡げられている。歴史の天使はこのような様子であるに違いない。かれは顔を過去に向けている。ぼくらであれば事件の連鎖を眺めるところに、かれはただカタストローフのみを見る。そのカタストローフは、やすみなく廃墟の上に廃墟を積みかさねて、それをかれの鼻っさきへつきつけてくるのだ。たぶんかれはそこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せあつめて組みたてたいのだろうが、しかし楽園から吹いてくる強風がかれの翼にはらまれるばかりか、その風のいきおいがはげしいので、かれはもう翼を閉じることができない。強風は天使を、かれが背中を向けている未来のほうへ、不可抗的に運んでゆく。その一方ではかれの眼前の廃墟の山が天に届くばかりに高くなる。僕らが進歩と呼ぶのは〈この〉強風なのだ。

ベンヤミン「歴史の概念について」第九テーゼ (野村修訳)






2019年3月9日土曜日

オリジナルノートブック『one wing flapping』@本づくり学校修了展

ひさびさの造本作品です。
左のページだけに翼が印刷されているノートブックです。右側に文字や絵などをかきいれることで、翼を完成させていただく。というコンセプトです。使い終わったあと、ページをぱらぱらとめくることで、書入れたページと翼がオーバーラップするさまを楽しむことができるように、90ページというやや多めのページ数にしました。今後改良をして、作品展示などの際のみ、販売するかもしれません。
3月9日〜23日に、横浜仲町台のカフェ「いのちの木」にて、展示しています。
詳細はこちらです。http://www.misuzudo-b.com/






2019年2月23日土曜日

2019の展示予定です

2019年の展示の予定です。

3月9日〜3月23日 本づくり学校修了展 いのちの木(仲町台)
https://www.inochi-no-ki.com/


11月(詳細日時未定)個展 『オオカミケン』(仮題)

作家:多和田葉子さん書き下ろし掌編に9枚の銅版画をつけます。
また、そこから派生したイメージをさらに油絵で描く予定です。

gallery hasu no hana(戸越公園)にて

2019はそれに向けて制作していく予定なので、それまでのおもだった展示はありません。
どうぞよろしくお願いします。


2020年春には、京都にて二会場で、造本の企画展示に参加します。
いずれ、告知をさせていただきます。



こちらは、制作途中の試し刷りです。







2019年2月22日金曜日

ひかりについてかんがえたこと

 2018年横浜美術館にて『モネ それからの百年』という展覧会が開催された。モネの作品と、その後、モネからの影響を感じられる作家たちの作品を並べたものだった。

 モネが現代の美術に与えた影響はいかばかりか。それは、美術史をそれぞれの絵を感じながら学んだ時から強く感じていた。なので、このような展覧会はそれを確かめる意味でも面白いだろうと思っていた。

 実際に出掛けてみて、モネの作品を目の当たりにしてみると、その後の影響を与えられたであろう、数々の作品群は、モネとはまるで違うものだった。ただ、技術や見た目やコンセプトということではなく、根本的に別物。誰かの言葉を借りるならOSがすでに違うということか。唯一マーク・ロスコーだけがそこにアクセスしていた。

 モネの凄さは、絵の具そのものでは発せられるはずのない光を絵の中で生み出すところである。印象派の前後では、そのように光、発光を可能にした絵画が多く生み出された。モネの他には、モランディ、ボナール、ミレー、ルノワールなどなど...。けれど、おそらく、広い視野をもちつつも直接的に狭窄的にそのことに向かったのはモネだけだと思う。
 
 美術史の変遷は、光の在り方の変遷でもあるかもしれない。宗教画のなかでは神の崇高、肖像画のなかでは威厳や人物のパーソナリティなどを光はライティング効果を存分に発揮してきた。しかし、全てを支配するという意味での神はいなくなり、貴族もいなくなった。もう舞台装置としての光は必要がなくなってしまった。近代社会において、真の闇がなくなったために光の在り方は変わってしまったかもしれない。光は所在を探し始めた。さかのぼるけれど、フェルメールは、貴族ではない人々の生活風景に荘厳な光を入れてきたところに面白さがある。しかし、本来なら、宗教的な光は、そのような空間にこそ存在しているはずなのだ。そのことは、神の不在の時代において画布の上にしみ出すように現れた。

 モネは光を出現させるために、オリジナルの舞台を探り当てる。神の所在なく、風景の荘厳さでもない。この光を描くためだけの舞台の発見こそがモネの凄さなのだと思う。

 先述の展覧会を見た時に、絵の具を発光させうることのできた作品をロスコー以外にみつけることはできなかった。もちろん、全ての作品はさまざまな試みの痕跡であり、そこに善し悪しがあるわけではなく感受させられるものも多くある。しかしながら、モネを観てしまってからは、あの光はいったいどこへいってしまったのだろう。と思わずにはいられなかった。ロスコーは神話を追求することで、宗教的な神以外の光を出現させた。モネは、そのどちらでもなく、象徴や比喩ではない、光そのものへ向かった。しかし、それだけでは、あれだけの光を絵画のなかに生み出すことはできない。

 モネの描く日の出の美しさに見入っているうちに、気がついたことがあった。モネと他の作家との違いは、絵画への信頼にあるように思えた。つまり、 現代美術の多くは客観性と関係性にいびつなまでのこだわりをみせるあまり、素直に感情的なモノローグの空間がないのだ。モネはおそらく、絵画についての学術的な探求より以前に、絵画との信頼関係の上に対話できる関係を築いている。

 仮説だけれど、光を感知するのは網膜ではなく感情だと思っている。感情の動きだけが光を認識できる。だから、目が見えないひとも光を感じているはずなのだ。

 つまりモネは、網膜に訴えているわけではなく、感情を引き起こすことで光を感知させてくる。それは、ロスコーも同じなのではないかとおもう。モノローグの感情の発信から、絵画の存在とからみ、信頼関係を生成していった。そして、その信頼関係は、まるで生命体のように感情の永久運動を発動させる。モノローグの空間の深さと豊かさ、そのうえでの終わらない対話。そこにモネの絵に出会ったときの感動がある。

 ところで、自分のことだけど、わたしはまだ今に至っても、絵画との信頼関係すら築けていない。まずはモノローグの空間を得ることからか。それには、 ドローイングがしばらくは必要みたい。 感情のからみは、まだまだそのずっと先。遠くに光の出現を、夢見るばかり。

 
 ドローイング「ひかりのぶどうを食べにきた象」