2019年4月2日火曜日

天使のこころ

はてさて何年ぶりでしょうか....。
早稲田松竹で、ヴィム・ヴェンダースの『ベルリン天使の詩(wings of desire)』を観ました。

設定がわかりにくい映画です。
天使たちはなぜベルリンにいるのか...。そして、なぜただ黙って人間によりそっているのか....。

それは、略奪と殺戮を繰り返す愚かな人間に愛想を尽かした神に対して、人間の味方をし、擁護したためです。彼らはそのことで神の怒りにふれ、天使の能力を奪われ、その時、地上で最も悲惨な土地であったベルリンに幽閉されてしまっているのです。彼らは、ただ、人間のこころの声を聞き、それを記録していくことしか出来ません。
彼らはベンヤミンの思想に現れる、がれきの前に立つ歴史の天使(認識者)たちです。

映画には、いろんな仕掛けがあるので、古い映画でも、観るたび発見があります。
今回、長い時を経て、あらたに発見したこと。
天使たちは、なぜ、人間を擁護したのかということへの答え。
これは、わたしの憶測ですが、
地球が生まれたときから長い静寂を過ごしてきた彼らの前に現れ、言葉を生み出し、語りかけてくれたのが、人間だったから...。
そのことに気がついて、なんだかジンとしました。

この映画が作られた二年後に、ベルリンの壁は崩壊したのですよね。
歴史の天使はいまは、何を見ているのでしょうか。

「新しい天使」と題されているクレーの絵がある。それにはひとりの天使が描かれており 、天使は、かれが凝視している何ものかから、いまにも遠ざかろうとしているところのようにも見える。かれの目は大きく見ひらかれていて、口はひらき、翼は拡げられている。歴史の天使はこのような様子であるに違いない。かれは顔を過去に向けている。ぼくらであれば事件の連鎖を眺めるところに、かれはただカタストローフのみを見る。そのカタストローフは、やすみなく廃墟の上に廃墟を積みかさねて、それをかれの鼻っさきへつきつけてくるのだ。たぶんかれはそこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せあつめて組みたてたいのだろうが、しかし楽園から吹いてくる強風がかれの翼にはらまれるばかりか、その風のいきおいがはげしいので、かれはもう翼を閉じることができない。強風は天使を、かれが背中を向けている未来のほうへ、不可抗的に運んでゆく。その一方ではかれの眼前の廃墟の山が天に届くばかりに高くなる。僕らが進歩と呼ぶのは〈この〉強風なのだ。

ベンヤミン「歴史の概念について」第九テーゼ (野村修訳)






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