2020年2月17日月曜日

メッセージはメディアとなった 印刷はなんのために?

 遠い昔の、学生時代。わたしはカリカリと銅版画を制作しつつも、オノヨーコの、アート作品に憧れていた。

 いまでこそ、日本の現代美術館で企画されることも少なくないけれど、そのころ、オノヨーコはまだ、ジョン・レノンと結婚し、ビートルズを解散させた(といわれる)最も有名でスキャンダラスな日本人女性...なのだった。誰も、アーティストとしてのオノヨーコの作品になど興味をもってはいなかった。わたしが、ぼろぼろになるまで眺めたのは、飯村隆彦Yoko Ono―オノ・ヨーコ人と作品』だ。とにかく、その作品は詩的でコケティッシュで、愛らしさを保ちつつ、鋭くこちらへ挑んでくるものだった。そして、わたしは初めて、アートのなかにある愛らしい切実さというものを知ったのだった。
 その本のなかには、オノヨーコのインタビューが載っていた。彼女がひたすらメッセージ(たとえば-WAR IS OVER-)を発信しつづけることについてふれ、「マクルーハンはメディアはメッセージであるといったけれど、わたしはメッセージはメディアであるといいたい」と語っていた。
 個人発信の拡散が容易になったいまになって、メッセージがメディアになりうることは、現実となった。

 メッセージはメディアであるという考え方は、わたしのこころの深くに刺さった。表現はいつも足下から、小さな個人のことばの域はでないが、その広がりは無限になりうる。版画という、一種の複製芸術の世界に入り始めていたこともあって、広がる可能性については、なんとなくではあるが肌感覚のなかにあった。悲しいかな、力不足で現実的にその広がりは乏しかったが、オノヨーコの考え方は、なにより、自分の無力さを嘆くこころを勇気づけてくれるものだった。
 少しずつではあるけれど、手動の印刷手段による本づくりの準備は始まっている。プリンターのほうが早いとか、いまの印刷は安いとか、いろいろあるのだけど、例えば風合いとか、スタイルとしてこういうやり方を選ぶというより、このときの「メッセージはメディアである」という言葉との出会いが、大きかったといま考える。

 わたしは表現することで何がしたいのか...何を見つけたいのか...おそらく何かと何かの間にある無の空間。あるいは負の空間のありようを探りたいのだと思う。そのネガをどれだけみつめていられるかということ。
 例えば、ノートルダム寺院を例にとり「書物はかつて建築だった」といったのは、ユゴーだった。では、建築と本の間には、何があるのか。ということ。あるいは、機械と手の間にはなにがあるのか。原本とコピーの間にはなにがあるのか、平和と戦争の間にはなにがあるのか、個とシステムの間にはなにがあるのか...まだはっきり何とはいえないけど、闇になかに手を入れてずっと探っていたいと思う。

 いまやろうとしている、アナログの印刷による冊子の作成は、そのこと自体がメッセージとなればと思いながら取り組んでいる。これは、個人の手と複製と拡散によるメッセージの遅延を目的としている。どれでもないスピード感でメッセージを送ってみたいのかもしれないし、単なるへそまがりの居場所さがしなのかもしれない。
 



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